『原子力資料情報室通信』第613号(2025/7/1)より


日本の植民地支配から解放された台湾では1947年の二・二八事件を契機として当時中国本土を支配していた国民党が戒厳令を命じた(国民党は第二次国共内戦で敗戦、1949年台北に首都移転)。台湾での原発導入は戒厳令が敷かれ、基本的人権が大幅に制約される中で進んできた。最終的には第一原発から第四原発まで8基の原子炉が建設されたが、第一原発、第二原発、第四原発はいずれも台北市から30km圏に位置している。また国民党政権は1960年代から80年代にかけて核兵器開発を進めていた。

 1987年、民主化運動のうねりの中、ついに戒厳令が解除された。国民党の独裁政権下で作られようとした第四原発反対運動は汚職と抑圧の象徴的な存在として、民主化運動の大きな柱となった。民進党(現与党)も原発反対を綱領に据えた。

 1994年には第四原発現地の貢寮(コンリャオ)で、1996年には台北市でも住民投票が行われ過半数が建設に反対した。だが政府は1996年、第四原発の国際入札を実施し、米ゼネラルエレクトリック社が受注した。日立と東芝が原子炉を、三菱重工がタービンを製造するなど、実態的には日本の原発輸出だった。台湾でも日本でも多くの抗議活動が行われるなか、1999年に建設が始まる。2000年の総統選挙では、長年台湾を統治してきた国民党に代わって、第四原発中止を公約に掲げた民進党の陳水扁(チェン・シュイピェン)が勝利した。すぐに第四原発の建設再検討に着手したが、国民党が多数を握る立法院との対立もあって、建設は続いた。

 2011年の福島第一原発事故は状況を大きく変えた。再び多くの人々が原発反対の声を上げ、2013年、2014年には台湾全土で10万人以上を動員する大規模デモが行われた。台湾は日本と同じ地震国で火山も存在する。人々は福島第一原発事故を切実なものとして受け止めたのだ。人々の声に押されて2014年、当時の国民党馬英九(マー・インジョウ)総統はほぼ完成していた第四原発の稼働・工事凍結を発表した。そして2016年、脱原発を公約に掲げた民進党の蔡英文(ツァイ・インウェン)が総統選挙で勝利する。蔡政権は2017年、電気事業法に「原発の運転を2025年までに全て終了する」ことを明記した。原発維持派は2018年にこの文言を削除させたが、民進党政権は揺るがず、2025年5月17日の脱原発に至った。台湾の脱原発運動は民主化運動と二人三脚で進んできたのだ。

 台湾では今、また揺り戻しが起きている。民進党は立法院では少数与党で、国民党など野党は現在40年とされている原発の運転期間を60年まで延長できるよう法改正した。さらに第三原発の再稼働を求める国民投票が8月に実施される。また、台湾は2025年の再エネ比率20%、2050年には60~70%という目標を掲げているが、現時点では2025年時点の再エネ比率は15%程度に留まる見込みだという。

 台湾の脱原発は2000年の陳水扁政権成立から25年を要した。脱原発は政権を取ったとしても、きわめて時間のかかる難しい課題だということがよくわかる。私たちも長期的視野のもとに粘り強く脱原発を求めていく必要がある。

(松久保 肇)

ついに稼働することがなかった第四原発(筆者撮影)

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