ビキニ水爆実験、海水の放射能を測る ―古川路明先生にきく―

『原子力資料情報室通信』第513号(2017/3/1)より

 

3月1日は「ビキニデー」である。1954年3月1日、焼津を母港とするマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」がビキニ環礁でおこなわれた米国の水爆実験で被爆した。出漁していた日本の漁船は1,000隻近くが被災した。この事件が契機となって、東京杉並の女性たちが原水爆禁止運動を起こし、またたくまに全国各地に広がった。毎夏の広島・長崎の原水爆禁止世界大会を生み出すもとになった。
翌55年7月9日の、核兵器に関する「ラッセル・アインシュタイン声明」は、ビキニ水爆実験が死の灰を降下させて日本人漁夫と漁獲物に害を与えたことを引用し、水爆戦争が人類を死滅に追いやる可能性を十分にもつと言明している。
当時、大学の化学科3年生だった古川路明名古屋大学名誉教授(1933年生まれ)は、その年の夏休みに、ビキニ海域で採取された海水中の放射能測定を手伝った。そのことが放射能との長い付き合いの始まりとなった。「なにか心中に期するところがあった」と、古川先生は語る。

(聞き手:山口幸夫・松久保肇)

 

―ビキニ水爆実験のころは、放射能の化学や放射線測定という分野の研究者はごく少数だったのではないでしょうか。東大の化学科にも「放射化学」という名の講義はまだ無かったのではないでしょうか。

「そうですね。本郷の化学科は無機化学に伝統があり、水島三一郎、木村健二郎といった錚々たる先生がおられました。無機化学のなかに地球化学の分野があり、温泉の研究をするひともいました。アメリカへ行かれて、放射化学の先達の一人になった黒田和夫さんも木村門下です。黒田さんは、天然の原子炉の存在やプルトニウムは自然界にもわずかだが存在するらしいという研究をされた方です。
「放射化学」という講義はありませんでしたが、内容はありました。木村先生が放射能、ウラン、トリウム、その娘―壊変してできますねー、さまざまな元素の存在の話をされました。学生たちが、なぜ息子ではなく娘なのですか、と質問すると、そりゃあ、そうさ、子どもを生むのは女性でしょう、などと笑って答える場面もありました。
放射線の測定器といえば、ガイガー・ミュラー・カウンターがあるだけでしたよ。市販もされていました。これは800~1,100ボルトの高電圧で使うので、安定化電源に苦労しました。しかし、1960年代後半にゲルマニウム半導体検出器が導入されて、ガンマ線測定に革命をもたらしました。」

 

―ビキニ実験の社会的影響についてはどうだったのでしょうか。新潟県の田舎の高校1年生だった私(山口)は、「原爆マグロ」のニュースを新聞で読みましたし、雨にあたるなと言われた記憶があります。

「そう、日本各地で雨に高いカウントの放射能が検出されました。京都の5月16日の雨は86,000カウントでした。5月末の東京の雨は1万カウントでした。
とにかく放射能マグロが社会に大反響を巻き起こしましたね。漁業はさんざんでした。人間がマグロを食べないものだから、(猫の餌になって)我が家の猫が喜んでいる、などと木村先生は冗談を言っておられました。
ビキニ実験では、99番元素のアインスタイニウムと100番元素のフェルミウムが見つかったのです。化学者として忘れられません。ウラン237も検出されました。これは木村先生、仁科芳雄先生が若いころに発見された核種です。日本人が発見した核種というのはそうは沢山は無いんですが、木村先生は複雑なお気持で実験結果をご覧になったようでした。
海がどれだけ汚染されたかも大問題になりました。5月に俊鶻丸がビキニ海域に調査に行って、いろんな場所から海水をサンプルとして採取してきました。何しろ広範な海域です。半数致死量の5シーベルトというのは半分の人が30日くらいで死ぬと、その範囲が何百キロメートルとあります。船は7月に戻ってきたのですが、測定者が足りないというので、学部の3年生の夏休みに杉並の高円寺にあった中央気象台(56年から気象庁)の気象研究所の地球化学研究室に手伝いに行ったのです。三宅泰雄、木越邦彦、北野康、猿橋勝子先生たちに多くを教えていただきました。」

 

―気象研での放射能の測定はどのようにされたのでしょうか。

「海水中に鉄とバリウムの担体を加え、アンモニア水で中和しますと、沈殿が生じます。これに集まる放射能をガイガー計数管で測定したのです。当時はまだ幼くて、吸収し得たことは多くはありませんでしたが、後になって考えると、これは非常に貴重な経験でした。
56年に学部を終えて大学院に進みました。最初に木村先生の指導を受けましたが先生は停年を前に日本原子力研究所に移られ、その後を継がれた斎藤信房先生の門下生になりました。今になってみると、冨田功くんとともに、最初の放射化学を専攻する学生になったと感じています。」

―修士課程を終えて古川先生は東大原子核研究所で原子核反応の研究を始められました。その後、放射化分析など、ずっと名古屋大で研究を続けられました。研究一筋と言っていいかもしれませんが、ずいぶん早くから原子力発電を批判されていました。

「70年の3月に敦賀原発1号機が大阪万博に間に合わせて発電を開始しました。日本の軽水炉時代の幕開けですね。当時は、エネルギー問題の解決に原発礼賛が指導的な科学者によって語られていました。しかし私は、原発は急場には間に合わないし、長期的にもわが国では暗い見通ししか持てないと考えていました。使用済み燃料の再処理がいずれ大問題になることは必至ですし、工事を中断して20年以上前に戻って考え直す以外にはないと考えていました(73年12月6日付朝日新聞)。「化学と工業」74年1月号にも考えを書きました。」

 

―チェルノブイリ原発事故では測定をされましたが、当時のことをうかがえますか。

「事故が起こったと知ったのは4月29日でした。ちょうど大型連休の直前で、これで連休がつぶれるなと思ったことを覚えています。当時、複数のメディアから放射性物質は日本にまでやってくるかと聞かれました。来ると答えた人はあまり多くありませんでした。久米三四郎さんに『やっぱり来るというのは古ちゃんだよ』なんていわれました。
私は、勤務していた名古屋大学の屋上で1970年から大気中の放射能測定をおこなっていました。当時は中国が大気圏内核実験をおこなうと日本にまで流れてきて、測定することができました。しかし1980年に中国が地下核実験に移行すると、そうしたものも測定できなくなり、もうそろそろだめかなと思っていたころに事故が起こったのです。突然、通常を大幅に上回る線量が測定されました。5月3日に当時の河野洋平科学技術庁長官が「放射性物質はチェルノブイリから飛んで来ません」と宣言しましたが、実際には飛んできていたのです。」
―基礎研究と軍事研究についてうかがいます。現在、国は防衛のための研究費を大幅に増額しようとしています。その是非をめぐって日本学術会議でも見解が分かれて、論争中です。線引きは難しいと思いますが、純粋な基礎研究に使うのであれば、研究費をうけとってもよいとお考えでしょうか。

「かつての原爆開発(42年、マンハッタン計画)に参加した研究者たちのことを思いますね。マンハッタン計画というのは、38年の暮れにドイツで発見された核分裂という新しい現象を応用して強力な爆弾を作ろうという極秘の研究ですが、部分的には純粋な数学、物理学、化学の研究も少なからず必要だったのです。それぞれの研究者に、計画全体が見えていたわけではありません。研究費は無限といっていいほど潤沢でした。まったくの純粋研究をやっていた研究者にとっては、自分たちが関わった研究の成果がヒロシマ・ナガサキに使われたことは衝撃だったようです。思い出したくもない、という人たちが多いのです。ですから、マンハッタン計画に関わった研究者には、こちらからそれを話題にしないのです。
基礎研究であっても、そういう研究費を受け取るのは、私はいやですね。」

参考
1) 古川路明『放射化学』(朝倉書店、1994年)
2) 『放射能発見100年を超えて』(古川路明先生停年退官記念、名古屋大学理学部化学科、1997年)
3) 大石又七『ビキニ事件の真実』(みすず書房、2003年)