第100回公開研究会報告「脱原発社会の姿を考える」
2019年6月23日、在日本韓国YMCAアジア青少年センターで、第100回公開研究会を開催しました。脱原発はもはや必然といえますが、明治以来続いてきた官僚制を脱原発社会でどのように変革すべきか。そして、真に豊かで持続可能な社会とはどのようなものか。新藤宗幸さん(千葉大学名誉教授)と暉峻淑子さん(埼玉大学名誉教授)に語っていただきました。
新藤宗幸(しんどうむねゆき)さん
「脱原発社会と政治・行政構造の変革」
- 「脱原発社会」とは何か
直接的に言えば「脱原発社会」とは、原発やそれに関連する技術・経済的システムが消え去ることです。しかし、1945年の敗戦で徹底的にやられても、また空母やF35戦闘機を購入すると言っています。すべての原発が止まったとしても、それが脱原発社会ではなく、たとえば宇宙戦争の技術・軍事体系が作られていくかもしれません。
仮に原発というプラントがなくなっても、社会システムとしての思考は同じでしょう。原発社会は、巨大科学技術信仰や近代化信仰のメタファー(暗喩)です。脱原発社会はその対極であり、巨大科学技術から適正技術に転換し、人間の営みを大事にした経済社会・生活などの社会的枠組をつくることですが、これはかなり難題です。
適正技術や人間の尊厳を重視した社会は、政治的デモクラシーの問題とどのように立ち向かうかを抜きには語れません。現代の政治行政の核心に存在しているのは、官僚制という組織です。脱原発社会に向けて、官僚制をどう改革するかということが重大なテーマです。 - 近代化に最も適合する組織としての官僚制
官僚制という組織形態が問題になるのは近代以降です。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、支配の類型として官僚制が最も合法的支配だと言っています。合法的支配で優れた点は、法律など社会の様々な規範を基に、権力の側がどう行動するか、外部の人間が予測可能なことです。ただし、権限と責任の体系はピラミッド型に組織され、その構成員は没個性的です。没個性だから非常に機械的に、効率的に動くのです。 - 日本の官僚制と政治
日本では、1885年に太政官制に替わり内閣制度が設けられ、1880年代後半に官僚機構が作られていきます。しかし、この官僚機構は国民の政府の官僚機構ではないのです。天皇主権の下で天皇のしもべとしての官僚機構なのです。戦前と戦後70年間の継続性は、様々な側面で見ることができます。官僚機構の要点を挙げれば3つです。
(1)「官尊民卑」のエートス(精神構造)
「官尊民卑」は、戦前の天皇主権の下で、我々は天皇の臣民であり、官僚は天皇の下僕であるということです。官は主権者である天皇の威を借りて仕事をし、民は介入できない。いまも日本の行政組織が何かに失敗しても、絶対にその責任を語りません。官はであり民が悪い。官に誤りはないという精神構造です。
(2)官僚制ないし法的な公務員制の身分的な問題
戦前の官僚制は、高等文官、普通文官、属または傭人に区分され、さらに天皇からの距離に応じて身分関係が制度化されていました。属は「付属」の属で、ひどい言葉です。1947年の現行公務員法の制定とともに、身分制は廃止されました。しかし、公務員採用試験は昇進の可能性を前提として区分しています。国家公務員試験は6年前から総合職と一般職に区分されていますが、総合職は昔でいうエリートコースで、一般職はどんなに頑張っても地方部局の課長くらいになるのが限界です。戦前から官僚制度の中に歴然と存在している身分関係が、依然として実質的に生き続けているのです。
(3)行政組織の権限と責任が不明
各省の設置法令にはそれに基づく政令・省令を含めて、各省・局・課ごとに所掌事務が記されています。ほとんどが「〇〇に関すること」という、どうにでも解釈できる書き方です。しかし、大臣・次官・局長・課長など、職ごとの責任と権限は何も書いてない。不明確なのです。
もう一つの問題は、行政作用法と行政組織法の関係です。行政作用法とは、公権力行使のための根拠規範です。例えば、道路交通法の速度違反で捕まえる際に、公権力行使の規範を行政作用法と言います。 行政組織法は、行政組織の設置と所掌事務を定めています。本来であれば、行政組織法と行政作用法は照応関係になくてはならないのですが、天皇主権の下ではその必要がありません。戦後においても両者の関係が点検されないままでした。したがって、今日なお官僚は行政組織法の所掌事務規程だけで権力を行使することが可能です。このやり方では、官庁の権限は無限に拡大します。権力行使の法的基準がなく、抽象的な所掌事務規定で権限行使ができるなら、権限は無限に広がっていく。それが、先進国とは比べがたいほど、日本の官僚機構が権限を増幅させてきた理由です。この悪弊は原子力政策にもみられます。 - 官邸主導体制と官僚制
1980年代末から90年代初頭にかけて、次々に政治スキャンダルが出ました。それを受けて、政治改革だといって衆議院に小選挙区制度が導入されました。そして政党助成法という、各政党の議員数に応じて助成金を配る法律ができました。政党助成法などの制度で、党中央の権限は強まります。そうした政治改革が、今日に続く官邸パワーの強化になっています。さらに、安倍政権の下では、内閣官房内閣府が肥大化し、霞ヶ関のミニチュア版のようなものが官邸につくられて、官邸主導・官邸官僚という言葉が登場してきました。
- 何を、どのように、改革すべきなのか
-官僚制にそくして
ではどうするか、ということを挙げると、
①内閣府の廃止と内閣人事局の権能を政治任用に純化すること。
②柔軟な省庁編成ができる体制をつくること。
③誰でもないものの支配から、顔の見える官僚機構に変えていくこと。
それが、適正技術や人間の良識や理性を前提とした政策を立案し、実施していく基礎条件の一つにはなると思います。そうすれば脱原発社会になるということではありませんが、今の政治よりはいくらかまともで、前進できるだろうと思います。
暉峻淑子(てるおかいつこ)さん
「脱原発社会になれば、それでいいのか」
- 常識的に見れば原発は消滅する産業
経済的にいえば、原発は成り立たないのです。しかし、一番の問題は、核の廃棄物の処分場がないという問題です。
私が一番心配していることは、原子力が軍事的に使われるようになることです。軍事にはコスト意識がない。原発をやめさせる理由として私たちが挙げてきた経済的コストは、もし軍事的に原子力を残すことになれば、これまでと違う論理で攻めないといけません。だから憲法9条は変えてはいけないと、原発の面からも感じています。 - 脱原発社会が実現すれば問題は解決する?
高木仁三郎さんが言っていたように、原発を受け入れたのは、日本の民主主義が根を持っていなかったからです。表面だけの民主主義の日本で、原発の後に何がやってくるのか。福島原発事故でも脱原発にならなかったのだから、日本の民主主義は本当に弱い。原発がなくなったとしても、次に来るものに対して日本の民主主義はそれを跳ね返せるのか、すごく怖いと思っています。
ドイツでは福島原発事故が伝えられた時に、全国で25万人が原発をやめようとデモをしました。メルケル首相は、直ちにドイツの原発の廃止を約束しました。子孫のためにも絶対にこれはダメだという強い意志があります。日本はみんなふわふわと柔らかで、これで脱原発社会になるのかなと、本当に心配しています。 - 高木仁三郎の『危機の科学』
高木さんは『危機の科学』という本で、「原発を招いてしまった欠点は、政治家が国民と民主的に対話をしていないことだ。原子力の専門家と市民との対話、専門家同士の対話も欠如していた」と書いています。
市民と対話する専門家が全くいなかったわけではありません。しかし、その数が少ないので影響力が低いのです。日本人は、原発推進派にもっともらしいことを言われると、そちらになびいてしまう。 - 「対話する社会へ」
対話が悪いと思っている人はいないと思います。しかし、日本の社会から対話はなくなっている。スマホで「いいね」といっているのは対話ではない。
一般に、エラーの8割はヒューマンエラーです。
高木さんも、「ヒューマンエラーをなくすことはでない。だから原発が安全ということはあり得ない」と書いています。ある航空会社で、待機時間にパイロットも客室乗務員も修理をする人たちもみんなで雑談をした。すると対話しているうちに、「こんなことがあった、ああいうことがあった」という話が出てきて、ヒューマンエラーが減ったというのです。人間と人間が対話する中でしかエラーはなくならない。私はそのことを看護師さんに言ったら、「看護の世界でもそうですよ」と。看護師どうしで色々なことを話し合うと、エラーが減ると言っていました。 - 対話がなぜ大事か
1つめは、子どもが生まれると、大人は一生懸命言葉をかけます。親は子どもが応答する生きものと信じています。わかってもわからなくても言葉をかける。それを大人が繰り返し言うことによって、音を言葉として受け取るようになります。だから、対話なくして子どもは言葉を覚えません。言葉によって応答する能力があるから、子どもは教育を受け入れます。
2つめは、対話は民主主義の言葉です。民主主義社会というのは、個人の尊厳を出発点にしていて、対話から始めることと全く同じです。だから民主主義の中で一番大事なのは、政治家の演説ではない。
対話の大事なところは、対話は勝ち負けを決めるための言葉の交換ではないということ。そして、話すことと聞くことを交互にすること。対話は話すことが主人公ではなく、聞くことが主人公です。だから行政も政治家も、対話をしたいと思ったら国民の言葉を聞かないとだめなのです。
対話をしていると生まれてくる新しいアイデアがあります。それを両者が発見することが対話の極意です。日本は、追いつけ追い越せで何でも能率的にやってきたので、対話という大事なものを切り捨ててきた。いま私たちが社会を新しくしようと思うなら、切り捨てたものをもう一度復元することです。 (報告:片岡遼平)
・第100回公開研究会の映像もご覧いただけます↓
https://cnic.jp/movies/8565