チェルノブイリ原発事故 ― 25年のメッセージ
概要
追加情報
チェルノブイリ原発事故の記事を最初に目にしたのは事故から数日後のことで、わずか一〇行にも満たない記事でした。スウェーデンで原発作業員が出勤して施設に入ろうしたら、放射線モニターが激しく反応したことが、この事故が世界に知られるきっかけだったといいます。
事故情報が知らされないなか、事故当日もその翌日も市民はいつものように日常を送っていました。子供を公園で遊ばせ、農作業にいそしみ、家畜に餌を与えていました。
野菜や果物、乳幼児に欠かせない乳、肉類などなど、ありとあらゆるものが放射能で汚染されました。報道写真はヨーロッパで山のように積み上げられた食べ物が廃棄されるようすを伝えていました。
放射能は日本にまでは飛んでこないと専門家たちは明言していました。八○○○キロメートルも離れているからです。しかし、この予想を裏切って一九八六年五月三日、日本にも落ちてきました。人びとはいつものように生活を送っていました。農薬に頼らず自然の恵みをいっぱい受けた野菜作りをめざす有機野菜運動をしていた農民や消費者の人たちは大きな衝撃を受けました。
それまで「反原発」という表現が使われていましたが、このときをきっかけに「脱原発」という表現が生まれました。日本でも多くの人々が原発に反対するようになり、原発からの撤退を求めるようになりました。
また、チェルノブイリの被災者の救援活動として、粉ミルクや医療品・医療器具などの物資を送ったり、子どもたちを非汚染地域へ連れ出すため日本に招くといった取り組みが行なわれました。救援活動は被災者との交流や相談を通して、今日も続けられています。
八八年に行なわれた集会には二万人が東京に集まりました。脱原発法を作ろうと三五○万人の署名が集まりました。どちらも日本の反原発史上はじめての出来事でした。残念ながら、この時にはまだ、脱原発へと原子力政策をひっくり返すには至りませんでした。
そして事故から二五年がたちました。事故当時にはまだ生を受けていなかった若者が増えてきています。そんな若者にも読んでいただきたいとこの小冊子をまとめました。史上最悪といわれるチェルノブイリ原発事故を風化させないために。
原子力資料情報室 伴英幸
(2011年2月記)
もくじ
被害の大きさはどれほどか
事故原発はいま、どうなっているか
日本の原発はだいじょうぶか
資料:
チェルノブイリ事故作業従事者の白血病・悪性リンパ腫に関する新たな報告
日本への輸入食品の汚染の状況
もっと知りたい人のために
特別付録:
「東日本大震災」と福島原発事故