はんげんぱつ新聞 縮刷版 第Ⅴ集
概要
縮刷版第Ⅴ集 発刊にあたって
反原発運動全国連絡会世話人 佐伯昌和
「事故が先か、止めるのが先かの競争の時代である」と、一九九一年十月、縮刷版第Ⅱ集(一〇一~一六〇号)発刊の辞に書きました。
残念ながら事故が先になってしまいました。二〇一一年福島第一原発事故は、いまだ収束しておらず、予断を許さない状況です。さらに、放射能汚染の拡がりは、危惧していたことがどんどん現実となり、「放射能汚染サイクル」とでも言うべき状況となっています。これまで各地で起こり、問題となった事柄が、時間的には集中的に、しかも長期にわたって、地域的には広範囲に、しかし放射能汚染の度合いに応じて噴出するものと思われます。
『はんげんぱつ新聞縮刷版第Ⅴ集』は、二〇〇三年四月の三〇一号から二〇一一年七月の四〇〇号までを収録しています。
二〇〇二年八月の東京電力の事故隠し発覚により二〇〇三年四月、東京電力のすべての原発が運転を停止する事態となりました。停電キャンペーンが繰りひろげられましたが、夏場の停電はけっきょく起こりませんでした。
二〇〇三年は、石川県の珠洲原発計画断念、つづいて新潟県の巻原発計画も白紙撤回が勝ち取られました。「原発のない住みよい巻町をつくる会」の桑原正史さんは、「夢を捨てることはありません。各地で闘っているみなさん。住民は、いつも息をひそめて、みんなが参加できる運動を待っています」と、二〇〇四年一月号に書いておられます。
二〇〇五年には、京都府の久美浜原発計画も白紙撤回が確定します。終止符を打った旧通産省出身の中山京丹後市長は、「国の原子力政策は否定しないが、隣接する兵庫県の豊岡市から飛来したコウノトリが原発にとまっている光景も想像し難い」と述べています。
残る新規立地点となった山口県上関、青森県大間の記事も、数多く取り上げられています。二〇一〇年七月号は、上関原発計画反対特集を組みました。今回の福島事故を受け、新規立地攻防に終止符を打つまであと一歩です。
二〇〇四年二月号には、福島第一原発で働き多発性骨髄腫を発症、労災認定を勝ち取った長尾光明さんの記事が出ています。労働者ヒバクの問題は、おもてに出にくい実態があります。高線量下の作業となる福島事故処理の労働者が圧倒的に不足する状況の中、今後、労働者ヒバクが大問題になると思われます。重すぎる課題ですが、しっかりと向き合う必要があります。
同じ二月号と次の三月号に、東京電力柏崎刈羽原発で管理区域外へ廃棄物を持ち出し、焼却や埋設をしたという内部告発を受けた記事があります。ほんらい、原発の管理区域内で使い、廃棄しようとするものは、すべて放射性廃棄物として扱うのが原則です。
しかし、あるレベル以下なら放射性廃棄物扱いの必要なしとして「スソ切り」が行なわれています。二〇一〇年二月号には「東海原発のスソ切り廃棄物 再利用品の行き先」の図が載っています。行き先がわかるうちは、まだよいのですが……
そして今回の福島事故で、土、水、農林畜水産物、工業生産物、野生動植物、海、ガレキ等々、ありとあらゆるものが放射能に汚染されました。その多くが放射性廃棄物扱いされることなく出回っています。汚染が汚染を生む「放射能汚染サイクル」にストップをかけていくことも、脱原発の大きな課題です。
二〇〇四年、二〇〇五年には、使用済み燃料の中間貯蔵や高レベル放射性廃棄物の誘致が問題となりました。宮城県日南市や南郷町、熊本県天草御所浦町、長崎県上五島町、島根県隠岐島と、原発同様、過疎の地が狙われますが、阻止しています。
二〇〇七年一月号の座談会では、高レベル処分場拒否の年にと、岡山からの提案が行なわれました。その通り、高知県東洋町では無事、ストップがかけられました。
高速増殖炉もんじゅと六ヶ所再処理工場は、『はんげんぱつ新聞』においても大きなテーマです。二〇〇五年十一月号では、再処理特集を組みました。二〇〇八年一月号の座談会で、原発反対福井県民会議の小木曽美和子さんは、「もんじゅ事故後の高速増殖炉懇談会で、高速増殖炉の開発はいったん白紙に戻りました。でも、もんじゅには六〇〇〇億円もかけたので、そのままつぶすには忍びないから再開するという。今後さらに開発にお金をつぎこんでも、将来的に商業化されて電力会社に採用される見込みはないんだから、けっきょくは壮大な無駄遣いです」と言い、核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団の山田清彦さんはそれを受けて、「プルトニウムというごみを燃やす焼却炉どころか、もんじゅというごみをどうするかという話ですよね」。そして最後、小木曽さんは「まずは確実に計画を遅らせること。そこに勝機が見えてきます」と結んでいます。
二〇〇六年四月号の一面トップは、「志賀原発2号機に運転差止め判決」。金沢地裁の判決は、「被告(北陸電力)の想定を超えた地震動によって本件原発に事故が起こり、原告らが被ばくする具体的可能性がある」と、画期的なものでした。この判決が生かされていたらと思うと、残念でたまりません。
反原発運動全国連絡会の世話人で新潟県刈羽村を守る会の武本和幸さんは、二〇〇四年一月号の座談会で「地元にはまだ原発がありますから、事故を起こさせないように緊張関係を保っていくことが仕事だろう」と述べています。
そんな活動に当たる記事が、二〇〇八年五月号に載っています。北海道泊原発の温排水の長期影響を調べるため水温観測を三〇年も続けておられる岩内原発問題研究会の斉藤武一さんの地道な活動です。
同号は「はんげんぱつ新聞三〇年」の記念号で、『はんげんぱつ新聞』の生みの親である久米三四郎さん(翌二〇〇九年八月三一日逝去)が寄稿しておられます。
「原子力発電所の建設がすすむにつれて、とくに原子力発電所の立地候補地の周辺では、住民の間で、原子力発電所そのものに反対する運動が強まり、立地を誘導するための政府の政策にまっこうから反対する運動が各地で力をつけてきた。
現在では、電力会社の中からも、『これまでに原子力発電所の運転中に生じた厄介な「放射性廃棄物」のあと始末さえできるのであれば、原子力発電から身を引きたい』との声が聞かれるに至っている。それが三〇年の力だろう」。
力をつけた住民が原発を拒否した町の一つに、和歌山県日高町があります。一九九〇年九月に終止符を打ってから一八年後の二〇〇八年一〇月号のインタビューで、日高町議会議長の一松輝夫さんは「よその町の人に言うことはありません。町のことは、その町の人が皆で考えるべきだと思う。原発はいいものですかと聞かれたら、やはりやめたほうがいいと答えますがね」と話し、比井崎漁協理事で民宿も経営する漁師・浜一巳さんは「日高町は原発をはね返してよかった、と隣り近所の町の人もふくめて誰もが言ってくれています。やめたからこそ町の和が戻った。これがいちばんですね」と締めくくっています。
『はんげんぱつ新聞』は、一九七八年五月から毎月二〇日に発行しています。今年(二〇一一年)三月号は、チェルノブイリ原発事故から二五年を特集しました。三月一一日にはすでに、ほぼできあがっていて、「福島事故」を入れることはできませんでした。
チェルノブイリと福島。重ね合わせて読んでみると、どの文章も示唆に富んだものの連続となっています。「ベラルーシの風下の村で考えたこと 田口ランディ」「被災者に僅かでも寄り添って ジュノーの会 甲斐等」「広島・長崎とチェルノブイリの違い チェルノブイリ救援・中部 河田昌東」「事故当時、そして今 福島原発30キロ圏ひとの会 大賀あや子」。
そして「3月26日、福島で原発が動き始めて40年を迎えます」「福島発・ポスト原発社会に迫る ハイロアクション、スタートします!」の記事に至っては、言葉もありません。
三月一一日の地震・津波で家を流され、命からがら逃げられた宮城県女川町の阿部宗悦さんは、『はんげんぱつ新聞』発足当時、反原発運動全国連絡会の代表を務めてくださいました。その阿部宗悦さんは、二〇〇五年八月号に次の文章を書いておられます。
「一九六七年、女川町と議会が国や県と結託し原発を誘致しようとしていることを知り、急遽、原発阻止のため町と議会に対しての抗議を展開することとなる。漁民集落ごとの学習会を重ね、反対運動を高めていった。しかし、残念ながら札束攻勢の悪辣な手段で漁業権を奪われ、原発が3号機まで建設されてしまった。大事故につながるトラブルは頻発し、いま住民は、大地震と原発事故との連動が取り返しのつかない事態になることを恐れている。7月2日の3号機の燃料棒穴あきの際には、漏れた放射能による突然変異だろう、わが家の庭先のムラサキツユクサの花びらがピンク色に変色した」。
二〇一一年七月三一日記 京都にて
反原発運動全国連絡会世話人 佐伯昌和
「事故が先か、止めるのが先かの競争の時代である」と、一九九一年十月、縮刷版第Ⅱ集(一〇一~一六〇号)発刊の辞に書きました。
残念ながら事故が先になってしまいました。二〇一一年福島第一原発事故は、いまだ収束しておらず、予断を許さない状況です。さらに、放射能汚染の拡がりは、危惧していたことがどんどん現実となり、「放射能汚染サイクル」とでも言うべき状況となっています。これまで各地で起こり、問題となった事柄が、時間的には集中的に、しかも長期にわたって、地域的には広範囲に、しかし放射能汚染の度合いに応じて噴出するものと思われます。
『はんげんぱつ新聞縮刷版第Ⅴ集』は、二〇〇三年四月の三〇一号から二〇一一年七月の四〇〇号までを収録しています。
二〇〇二年八月の東京電力の事故隠し発覚により二〇〇三年四月、東京電力のすべての原発が運転を停止する事態となりました。停電キャンペーンが繰りひろげられましたが、夏場の停電はけっきょく起こりませんでした。
二〇〇三年は、石川県の珠洲原発計画断念、つづいて新潟県の巻原発計画も白紙撤回が勝ち取られました。「原発のない住みよい巻町をつくる会」の桑原正史さんは、「夢を捨てることはありません。各地で闘っているみなさん。住民は、いつも息をひそめて、みんなが参加できる運動を待っています」と、二〇〇四年一月号に書いておられます。
二〇〇五年には、京都府の久美浜原発計画も白紙撤回が確定します。終止符を打った旧通産省出身の中山京丹後市長は、「国の原子力政策は否定しないが、隣接する兵庫県の豊岡市から飛来したコウノトリが原発にとまっている光景も想像し難い」と述べています。
残る新規立地点となった山口県上関、青森県大間の記事も、数多く取り上げられています。二〇一〇年七月号は、上関原発計画反対特集を組みました。今回の福島事故を受け、新規立地攻防に終止符を打つまであと一歩です。
二〇〇四年二月号には、福島第一原発で働き多発性骨髄腫を発症、労災認定を勝ち取った長尾光明さんの記事が出ています。労働者ヒバクの問題は、おもてに出にくい実態があります。高線量下の作業となる福島事故処理の労働者が圧倒的に不足する状況の中、今後、労働者ヒバクが大問題になると思われます。重すぎる課題ですが、しっかりと向き合う必要があります。
同じ二月号と次の三月号に、東京電力柏崎刈羽原発で管理区域外へ廃棄物を持ち出し、焼却や埋設をしたという内部告発を受けた記事があります。ほんらい、原発の管理区域内で使い、廃棄しようとするものは、すべて放射性廃棄物として扱うのが原則です。
しかし、あるレベル以下なら放射性廃棄物扱いの必要なしとして「スソ切り」が行なわれています。二〇一〇年二月号には「東海原発のスソ切り廃棄物 再利用品の行き先」の図が載っています。行き先がわかるうちは、まだよいのですが……
そして今回の福島事故で、土、水、農林畜水産物、工業生産物、野生動植物、海、ガレキ等々、ありとあらゆるものが放射能に汚染されました。その多くが放射性廃棄物扱いされることなく出回っています。汚染が汚染を生む「放射能汚染サイクル」にストップをかけていくことも、脱原発の大きな課題です。
二〇〇四年、二〇〇五年には、使用済み燃料の中間貯蔵や高レベル放射性廃棄物の誘致が問題となりました。宮城県日南市や南郷町、熊本県天草御所浦町、長崎県上五島町、島根県隠岐島と、原発同様、過疎の地が狙われますが、阻止しています。
二〇〇七年一月号の座談会では、高レベル処分場拒否の年にと、岡山からの提案が行なわれました。その通り、高知県東洋町では無事、ストップがかけられました。
高速増殖炉もんじゅと六ヶ所再処理工場は、『はんげんぱつ新聞』においても大きなテーマです。二〇〇五年十一月号では、再処理特集を組みました。二〇〇八年一月号の座談会で、原発反対福井県民会議の小木曽美和子さんは、「もんじゅ事故後の高速増殖炉懇談会で、高速増殖炉の開発はいったん白紙に戻りました。でも、もんじゅには六〇〇〇億円もかけたので、そのままつぶすには忍びないから再開するという。今後さらに開発にお金をつぎこんでも、将来的に商業化されて電力会社に採用される見込みはないんだから、けっきょくは壮大な無駄遣いです」と言い、核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団の山田清彦さんはそれを受けて、「プルトニウムというごみを燃やす焼却炉どころか、もんじゅというごみをどうするかという話ですよね」。そして最後、小木曽さんは「まずは確実に計画を遅らせること。そこに勝機が見えてきます」と結んでいます。
二〇〇六年四月号の一面トップは、「志賀原発2号機に運転差止め判決」。金沢地裁の判決は、「被告(北陸電力)の想定を超えた地震動によって本件原発に事故が起こり、原告らが被ばくする具体的可能性がある」と、画期的なものでした。この判決が生かされていたらと思うと、残念でたまりません。
反原発運動全国連絡会の世話人で新潟県刈羽村を守る会の武本和幸さんは、二〇〇四年一月号の座談会で「地元にはまだ原発がありますから、事故を起こさせないように緊張関係を保っていくことが仕事だろう」と述べています。
そんな活動に当たる記事が、二〇〇八年五月号に載っています。北海道泊原発の温排水の長期影響を調べるため水温観測を三〇年も続けておられる岩内原発問題研究会の斉藤武一さんの地道な活動です。
同号は「はんげんぱつ新聞三〇年」の記念号で、『はんげんぱつ新聞』の生みの親である久米三四郎さん(翌二〇〇九年八月三一日逝去)が寄稿しておられます。
「原子力発電所の建設がすすむにつれて、とくに原子力発電所の立地候補地の周辺では、住民の間で、原子力発電所そのものに反対する運動が強まり、立地を誘導するための政府の政策にまっこうから反対する運動が各地で力をつけてきた。
現在では、電力会社の中からも、『これまでに原子力発電所の運転中に生じた厄介な「放射性廃棄物」のあと始末さえできるのであれば、原子力発電から身を引きたい』との声が聞かれるに至っている。それが三〇年の力だろう」。
力をつけた住民が原発を拒否した町の一つに、和歌山県日高町があります。一九九〇年九月に終止符を打ってから一八年後の二〇〇八年一〇月号のインタビューで、日高町議会議長の一松輝夫さんは「よその町の人に言うことはありません。町のことは、その町の人が皆で考えるべきだと思う。原発はいいものですかと聞かれたら、やはりやめたほうがいいと答えますがね」と話し、比井崎漁協理事で民宿も経営する漁師・浜一巳さんは「日高町は原発をはね返してよかった、と隣り近所の町の人もふくめて誰もが言ってくれています。やめたからこそ町の和が戻った。これがいちばんですね」と締めくくっています。
『はんげんぱつ新聞』は、一九七八年五月から毎月二〇日に発行しています。今年(二〇一一年)三月号は、チェルノブイリ原発事故から二五年を特集しました。三月一一日にはすでに、ほぼできあがっていて、「福島事故」を入れることはできませんでした。
チェルノブイリと福島。重ね合わせて読んでみると、どの文章も示唆に富んだものの連続となっています。「ベラルーシの風下の村で考えたこと 田口ランディ」「被災者に僅かでも寄り添って ジュノーの会 甲斐等」「広島・長崎とチェルノブイリの違い チェルノブイリ救援・中部 河田昌東」「事故当時、そして今 福島原発30キロ圏ひとの会 大賀あや子」。
そして「3月26日、福島で原発が動き始めて40年を迎えます」「福島発・ポスト原発社会に迫る ハイロアクション、スタートします!」の記事に至っては、言葉もありません。
三月一一日の地震・津波で家を流され、命からがら逃げられた宮城県女川町の阿部宗悦さんは、『はんげんぱつ新聞』発足当時、反原発運動全国連絡会の代表を務めてくださいました。その阿部宗悦さんは、二〇〇五年八月号に次の文章を書いておられます。
「一九六七年、女川町と議会が国や県と結託し原発を誘致しようとしていることを知り、急遽、原発阻止のため町と議会に対しての抗議を展開することとなる。漁民集落ごとの学習会を重ね、反対運動を高めていった。しかし、残念ながら札束攻勢の悪辣な手段で漁業権を奪われ、原発が3号機まで建設されてしまった。大事故につながるトラブルは頻発し、いま住民は、大地震と原発事故との連動が取り返しのつかない事態になることを恐れている。7月2日の3号機の燃料棒穴あきの際には、漏れた放射能による突然変異だろう、わが家の庭先のムラサキツユクサの花びらがピンク色に変色した」。
二〇一一年七月三一日記 京都にて
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