3月6日、全国から寄せられた3万6655筆の署名を提出、厚労省・検討会に労災認定を迫る

3月6日、全国から寄せられた3万6655筆の署名を提出、
厚労省・検討会に労災認定を迫る

 喜友名正さんの労災認定に関する専門家による第2回検討会は3月中に開催され、悪性リンパ腫と放射線被曝の関係が検討される見通しです。
 3月6日、遺族の喜友名末子さんが沖縄から上京され、全国から寄せられた3万6655筆の「喜友名さんの悪性リンパ髄を労災認定せよ」の声とともに厚生労働省に労災認定を迫りました。
 「市民と議員の院内集会」には40名を超える参加があり、末子さんの決意表明に続き、たくさんの支援の発言が続きました。
 末子さんは厚労省に対して、「夫は国が安全と言っているからだいじょうぶと、原発で働き続けた。夫の命を奪われて時間が止まってしまった。夫の無念を晴らしたい、労災補償は当然だと思って申請したのに却下されてしまった。今回再検討されることになったので、是非とも認定を求める」ときっぱり主張されました。
 原発の定期検査の現場に入ったとたん被曝線量が限度を超えてしまったからと沖縄に帰って来る状況だったこと、日給制なので収入が途絶えてしまうのでアルバイトをしていたことなどを記した陳述書を提出されました。
 
★喜友名末子さんから提出された陳述書

■追加申し入れ事項(要旨)
  1.喜友名さんは定検非破壊検査に従事したが、多量の被曝は原発の労働環境による。
    原発作業様式の現場追加調査を求める。
  2.私たちの調査では、喜友名さんが定期検査の開始以前から従事している事例が6件ある。
    調査を求める。
  3.喜友名さんに関するすべての作業計画・環境・労働記録を遺族に公開せよ。
■再確認事項
  ・悪性リンパ腫は白血病類縁の疾患であり、放射線起因性がある。
  ・私たちは放射線被曝による悪性リンパ腫の増加を示す疫学調査についてその要点を示した。
   文献レビューだけでなく、しっかり検討することを求めている。
  ・悪性リンパ腫の被曝補償は世界の趨勢である。
  ・喜友名さんの被曝線量は白血病認定基準の3倍を超える。
  ・喜友名さんは過酷な被曝作業に従事していた。
  ・これまでに提出した申入書、添付資料をすべて検討会の資料として配布する。
  ・私たちは検討経過とその内容、資料の公開を求めている。
  ・多発性骨髄腫、悪性リンパ腫などを例示に加えることについて検討会を開く。
  
●原発で被曝し、「悪性リンパ腫」で死亡した
 喜友名正さんの労災認定を求める全国署名
 認定されるまで続けますので、よろしくお願いします。
 
 昨年12月、第1次集約として1万2,411筆提出。6日には3万6,655筆提出しましたが、追加分が続々届き5万筆を超えています。今週末までに集まった分を第2次集約分の追加として厚労省に届けます。また、労災が認定されるまで署名を集めますので、よろしくお願いします。

喜友名正さんの労災認定を支援する会


喜友名末子さんから提出された陳述書

 以前提出した2007年1月17日付陳述書で触れていなかったこと、思い出したことについて、以下のとおり補充します。

1 夫は、時々、被曝しすぎて仕事ができないと言い、沖縄に帰ってきました。沖縄に帰ってくるときは、私が那覇空港まで車で迎えに行くのが通常でした。ですから、夫が沖縄に帰るときは、いつも「空港まで迎えに来て」と電話がかかってくるのですが、そのとき、「(放射線を)浴びすぎたから帰る」と言われたことが何度もありました。むしろ、沖縄に帰ってくるのは、いつも放射線を浴びすぎて仕事ができないときだったという印象です。
 私は、夫が本土に出かけてすぐにそのような電話がかかってきて、驚いて「え、もう帰るの?」と答えたこともありました。

2 夫のサンエックスコーポレーションでの処遇は、日給制の月払いでした。
 原発で仕事をしている間は、日給が発生しますが、仕事がないときは、収入が途絶えました。
 そのため、夫は、収入を確保するためには、原発へ行かなければなりませんでした。夫は、沖縄の自宅にいると、時々サンエックスコーポレーションの社長に電話をして、「仕事がないか」と聞き、仕事があれば積極的に出かけていきました。そうしないと、収入が途絶えてしまうからです。

3(1) 夫は、「(放射線を)浴びすぎた」といい、何ヵ月か原発へ行かず、沖縄の自宅にいることがありました。
 私は、夫に対し、「何ヵ月も仕事がなかったら、給料もない。沖縄で何か仕事がないの?」と言ったことがあります。夫も、「何ヵ月も遊んでいられない」といい、沖縄で仕事を探していたことがありました。
 私が記憶している範囲で、夫は、サンエックスコーポレーションで勤務するようになってから、被曝しすぎて原発へ行けないといって沖縄に滞在している間、沖縄県内で3回ほどアルバイトをしていたことがあります。
 2008年1月から2月にかけて、私が記憶している3か所の勤務先に電話をかけたり、直接訪れたりして、夫のことを聞いてみました。
(2) そのうちの1か所は、私の親戚の●●さんが経営している建築業者で、1か月ほどアルバイトをしたことがありました。おそらく1999年末か2000年初めころだったと思いますが、冬だったことは間違いありません。
 私は、当時の給料明細等の資料が残っていないか、確認してもらっていますが、現時点で資料が出てこないようです。
(3) それから、夫は、宜野湾市●●にある「●●●●」という家電修理を扱う店で、アルバイトをしていました。このお店は、夫が、以前沖縄シャープに勤務していたころから、おつきあいがあったようです。
 今回、経営者の●●さんに連絡をとったところ、●●さんは、私の夫のことを覚えていました。●●さんに、夫が働いていた時期を調べてもらったところ、2003年の1月から3月までだったことが分かりました。
 また、●●さんは、当時の夫の様子について、「沖縄シャープにいたころは太っていたのに、アルバイトで来たときは痩せていて驚いた」と教えてくれました。
(4) もう1ヵ所は、沖縄市にある「●●●●」という、●●●電器の下請でクーラー取付をしている業者でした。
 今回、私が●●●●に電話したところ、ここで10年以上勤務しているという方が応対してくれましたが、私の夫のことを覚えていると言っていました。今から5年くらい前の夏場に、1ヵ月ほどアルバイトをしていたと言っていましたが、時期は特定できませんでした。
(5) このように、夫は、収入が途絶えることのないよう、できるだけ原発に行きつつ、被曝しすぎて長期間原発の仕事ができないときは、沖縄県内でアルバイトをしていました。

4 私は、原発はとても危険なところだと思っていましたので、夫には早く辞めてほしいと思っていました。また、夫は「被曝しすぎて仕事ができない」ということもあり、その間アルバイトをしなければ収入が途絶えてしまうので、収入も不安定でした。ですから、私は、夫には、早く原発という危険な仕事は辞めて、多少給料が安くても、沖縄県内で安全で安定した仕事をしてほしいと思っていました。これは、私だけではなく、夫の両親をはじめ、家族、親族みんなの思いでした。
 私は、夫が原発で仕事をするようになってから、何度も「電気工事士の資格さえあれば、そんな危険な仕事をしなくてもいいのに」「電気工事士の資格があれば、県内でもいい仕事があるのに」と口うるさく言いました。
 それを気にしたのか、夫は、体調を崩して原発の仕事ができなくなる1年くらい前から、電気工事士の勉強を始めたようでした。夫は、電気工事士の勉強をするための本をよくカバンに入れて持ち歩くようになりました。また、原発にも電気工事士の本を持っていき、仕事先の宿で勉強をしているようでした。
 放射線を浴びすぎたら沖縄に帰ってくる。そして帰ってきたら仕事がない。夫も、そんな仕事が徐々に嫌になっていたのではないかと思います。また、夫も、原発は危ないと薄々感じて、不安になってきたのではないかと思います。夫は、私や家族・親族の反対を押し切って原発の仕事を始めて続けてきたので、私や家族・親族の前では意地でも弱音をはけなかったのではないかと想像しています。
 そして、きっと夫は、電気工事士の資格を取れたら、原発は辞めて沖縄県内で仕事をするつもりだったのではないかと思います。

5 夫は、悪性リンパ腫に罹患して病院に入院してから、「退院したら島に帰って、農業でもやる」と言うようになりました。ここで「島」というのは、夫が生まれ育った宮城島のことです。宮城島には、夫の実家があり、今も夫の両親が住んでいて、サトウキビ畑があります。
 私は、「今更そんなことを言っても遅い」と思いました。しかし、病気に苦しむ夫に対してそんな言葉を言うことはできず、「そうだね」と相づちを打ちました。
また、夫は、琉球大学付属病院に入院してから、主治医の●●先生には、「原子力の仕事のせいで、こんな病気になったのだろうか。」と聞いていたそうです。私は、そのことを●●先生から聞きました。
 夫は、最後まで、私の前で弱音をはくことはありませんでした。しかし、やはり原発が体をむしばんでしまったと考えて、後悔していたのだと思います。

6 原発で働く人たちは、皆、国のことを信用して仕事をしていると思います。国が認めている仕事が、危険なはずがないと、自分に言い聞かせて仕事をしているのだと思います。夫は、私が何度「原発は危ないから辞めて」と言っても、辞めませんでした。それは、夫が「国がちゃんと管理しているから大丈夫」と考えていたからです。
 病に倒れた夫は、私の前では決して弱音を吐くことはありませんでしたが、本当に無念で、後悔していたと思います。
 国は、危険な場所で人が働くことを許している以上、それによって健康被害が生じた場合には、当然、本人や遺族に対して、誠意をもって対応していただきたい、そのように思います。
 そして、私のような悔しい思いを、これ以上誰にもさせないように、きちんと徹底していただきたいと思います。
 
7 私は、夫が病気になるまで、夫が53歳の若さで亡くなってしまうことなど、夢にも思いませんでした。夫は、原発での仕事を始めるまで、ほとんど風邪もひいたことがない人でした。
 私は、現在、内科医院で病院事務の仕事をしています。つい最近ですが、80歳を超える老夫婦が検診に来ていました。お二人とも元気に農業をされているご夫婦でした。私たち夫婦も、ずっとこうやって二人で幸せに生活するつもりだったのにと思うと、その老夫婦のことがとてもうらやましくなりました。人には言えませんが、元気な老夫婦を見るたびに、そんなことを考えて、涙が出そうになります。
 私は、今でも夫のことを考えると、涙が出てしまいます。
 また、私は、今でも時々夫のことを夢に見ます。
 最近ですが、何度も夫が夢に出てくるので、親族に相談したことがあります。親族から、「正さんの気持ちが、家に残っているのではないか。遺品を処分した方がいい」と言われ、夫が持っていた電気工事士の勉強のための本などを処分しました。
 支援者の方々のご尽力もあり、夫の労災の件が、ようやく厚生労働省にて再度検討して頂けるまでに至りました。
 一日も早く、労災と認められて、夫の無念が晴れることを願ってやみません。

以上

2008年2月28日