被爆80年と原子力問題 核と人類は共存できない

『原子力資料情報室通信』第614号(2025/8/1)より

原水爆禁止日本国民会議共同議長 金子 哲夫

核の「平和利用」を肯定してスタート

 「原水爆禁止がかならず実現し、原子戦争を企てている力をうちくだき、その原子力を人類幸福と繁栄のためにもちいなければならないことの決意をあらたにしました。」これは、1955年8月に開催された第1回原水爆禁止世界大会の宣言文の一部です。原水禁運動は、バラ色の未来を待望(森瀧市郎)し、核の「平和利用」を認めてスタートしました。翌年8月に結成された日本原爆被害者団体協議会の結成大会の宣言「世界へのあいさつ」でも「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と反映の方向に向かわせるということこそが、私たちの生き残る唯一の道です。」と「平和利用」への期待を訴えています。

 この「世界へのあいさつ」の原案を書いた森瀧市郎さんは、後にこのことを次のように述懐しています。「原子力の『軍事利用』すなわち原爆で、あれだけ悲惨な体験をした私たち広島・長崎被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなに素晴らしい未来が開かれることだろうかと、いまから思えば穴にはいりたいほど恥ずかしい空想をいだいていたのである。」

「原子力空母が危険なら、原発は」

 こう問題提起したのは、地元住民を中心に原発建設反対運動が取り組まれていた新潟県原水禁です。当時大きな運動となっていた米原子力空母エンタープライズの入港反対は、「ベトナム戦争への出撃基地にするな」という反戦運動とともに「原子力空母が積載する原子炉」の危険性に反対する反核運動の性格も持っていました。ですから新潟県原水禁の代表は「原子力空母が危険というなら、原発も危険ではないのか」と問題を持ち込んだのです。

 当時の原水禁国民会議は、「原発の仕組みから、危険性までほとんど情報のない」時期でしたので手探りの中でのスタートとなりました。手探りですが大切なことは、地域からの問題提起を受け止め、真剣に向き合おうとする姿勢があったということです。この姿勢は、原水禁運動が、ビキニ水爆実験を契機に各地域の署名運動からスタートし、その運動を結ぶ形で、連絡会議が結成され、そして原水禁世界大会の開催ヘと発展した運動のスタイルと共通するものです。地域からの運動を大切にする姿勢は、さきに紹介した「原子力の平和利用に夢を抱いた」ことを、率直に誤りだったと認めた森瀧市郎さんの姿勢とともに、いまに引き継がれる原水禁国民会議の財産といってよいものだと私は思っています。

 新潟県原水禁からの問題提起を受け、「原子力の『平和利用』問題」を初めて原水禁世界大会で取上げたのは、1969年の「被爆24周年原水爆禁止世界大会」です。この大会では「核燃料再処理工場設置反対の決議」が採択され、その年の11月には、新潟県柏崎市で最初の「反原発活動者会議」が開催されました。「反原発」を大会のスローガンとして掲げたのは、「被爆26周年原水爆禁止世界大会」が最初で、運動方針に「安全の保障されない原子力発電所、核燃料再処理工場設置には反対しよう」が明記され、翌年の大会では「原発・再処理問題分科会」が、設けられました。こうした経過をたどり、各地の反原発住民運動をになう人たちが、その後の原水禁大会に参加することになったのです。

「核の平和利用」の欺瞞

 原水禁が「反原発」をスローガンとした同じ年、「反核・平和行脚」でアメリカ、ヨーロッパをめぐった森瀧市郎さんは、アメリカの反戦集会で「ベトナムで戦術核を使うな」と訴えるとともに、アメリカ・ヨーロッパの放射能公害問題、原発について憂慮する学者を歴訪し、「原子力平和利用に伴う放射能害」について意見を聞き、資料を集めました。特にアメリカ・スタンフォード大学のポーリング博士の被曝線量についての「許容量というがごとき“敷居”は存在しない。少なくとも遺伝の問題では」との主張に大きな影響を受けることになります。

 その後、この歴訪で出合った科学者の多くが、原水禁世界大会に参加し、原水禁の原発反対運動の基本理論を構築していく力にもなったのです。もちろん、「核の平和利用の欺瞞」を明らかにしたのは、他国の科学者たちだけではありません。「原発には安全性は保障されていない。放射性物質の危険性もまだ十分に解明されていない」と問題意識を持つ若い研究者、物理学者との交流も開始され、地域の活動との結びつきも強まり、反原発の運動が原水禁国民会議のもう一つの運動の柱となったのです。

「核と人類は共存できない」

 原水禁が「原発問題」に取り組むようになった同じ時期に、私たちは、1954年3月1日のビキニ水爆実験によるマーシャル諸島の核実験被害者と向き合うことになります。被爆26周年(1971年)原水禁大会ヘのミクロネシア代表団の参加です。その要請に応えて、12月に原水禁はミクロネシア被曝調査団を派遣します。ここから、南太平洋の核被害者と連携・交流が始まりました。そして1975年にフィジーで開催された「非核太平洋会議」で、原水禁が理念とする「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を確立する「最後の一押し」(森瀧市郎)となる証言を聞くことになるのです。

 オーストラリアの先住民アボリジニの女性が次のように訴えます。「ウラン鉱山は、私たちの祖先の聖地にある。その聖地がとりあげられ、私たちの無知をよいことにして、ウラン採掘の最も危険な所で低賃金で働かされているのです」。この非核太平洋会議では、「平和利用という名のもっとも困難な問題は『放射性廃棄物の究極的処理』である」ことが議論となり「もっともやっかいな放射性廃棄物の捨て場が太平洋に求められるのではないか」という危惧が共有されたのです。こうして私たちは、広島、長崎、核実験、原子力発電のスタートである「ウラン採掘から始まり、放射性廃棄物の処分に至る核社会」の全てで核被害者を生み出すことを知ったのです。そして、その年に開催された被爆30周年原水禁世界大会で「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を確立しました。

核社会は、弱き立場の人々を犠牲にして成り立つ

 「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念に込められた思いについて、森瀧市郎さんは、1987年に開催された「第1回核被害者世界大会」の基調演説「力の文明から愛の文明へ」で次のように述べています。

 「軍事利用でも平和利用でも核の開発利用には、常に放射線被害の可能性がからんでいる。ウラン採掘の段階から放射性廃棄物の処理の段階に至るいわゆる核燃料サイクルの全ての段階で、放射線被害の可能性がある。その際に、被害者は多くの場合、弱いものの側に、差別抑圧されているものの側に生ずるのである。核開発利用は、構造的に差別・抑圧の上に成り立っているのである。」

 東京電力福島原発事故が起きた2011年の広島市の「平和宣言」で「核と人類は共存できない」が取上げられました。また昨年12月のノーベル平和賞受賞演説で田中煕巳代表委員は「核兵器と人類は共存できない」と述べました。しかし、原水禁が基本理念とする「核と人類は共存できない」は、核兵器、原発事故だけでなく、力の象徴である核社会の中で常に被害を強いられる弱い立場の人たちの側に立ち、核社会そのものを否定する強い思いが込められていることを、被爆80年の今年、改めて強調したいと思います。

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