50周年に寄せて[第6回] 原子力資料情報室の前半生を振り返る―1975~2000年の極私的覚え書き―

『原子力資料情報室通信』第615号(2025/9/1)より

 原子力資料情報室は2025年9月で創立から50年を迎える。これを機に備忘のために初期の動きを振り返っておきたい。あくまで私的メモである。資料と記憶の欠落が多々ある。

1975年

 1975年8月、京都市で初の反原発全国集会「反原発全国集会―生存をおびやかす原子力」が開かれた。兵庫、三重、新潟など全国から51の住民団体と市民、研究者ら約600人が参加した。それに先駆けて東京では、公害問題研究会、日本消費者連盟、原水爆禁止日本国民会議などが6月に「反原発市民集会」を開いた。原子力資料情報室前代表の高木仁三郎さんは『科学』5月号に「プルトニウム毒性の考察」を書き、「反原発市民集会」などに関わる。プルトニウムという生涯を貫く主題と共に活発な活動をスタートさせていた。そして9月、東京都千代田区神田司町の司町ビルで原子力資料情報室は発足する。日本の反原発運動の転換期を象徴する年だったと言うこともできるだろう。現地住民vs.電力会社の闘いから、現地住民・電力消費地市民vs.政府・電力会社の闘いに大きく移行したのだ。

 現地住民の闘いで原発の新規立地が進まないことから政府は1974年6月に「電源三法」を成立させ、立地自治体に多額の地域振興費を交付することで打開を図るべく介入を始めた。現地公聴会を主催する構想を打ち出し、私的事業でなく国策なのだとアピールした。他方、9月の原子力船「むつ」の放射線漏れは市民社会の原子力への不信を生み、5月の電気料金値上げもあって消費者運動が反原発運動に加わってくる。現地住民、労働者、科学者らに反公害運動、都市の住民が加わり、日本の反原発運動の主役たちが顔をそろえ、75年8月の全国集会に結集した。

 その翌月に原子力資料情報室は産声を上げたのだが、公的な記録はなく、9月としかわかっていない。高木仁三郎前代表の自伝『市民科学者として生きる』(岩波新書)には、「記録も記憶も定かでないが、1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局、武谷三男氏を代表とし、浪人的存在だった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビルの5階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった」とある。

 高木さんは2年前に東京都立大学助教授を辞し、『科学』に科学時評を連載するなどしていた。司町のビルの5階とは、東京都千代田区司町の4階建てビルの屋上に建てられた小部屋のこと。4階には原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が入っていて、小部屋は資料室として確保されていたものだった。そのころ筆者(西尾漠)は「反広告会議」を名乗って電力会社等の広告批判をもっぱらにしており、以前から原水禁事務所に出入りはしていた(白状するとコピー機の借用が主目的だった)ものの、原子力資料情報室設立には関与していない。原子力資料情報室は科学者の集まりで、自分は違うという意識からだった。

 設立呼びかけ人の一人で原水禁の事務局次長だった井上啓(ひらく)さんが『脱原発の20年』(1995年、原子力資料情報室刊)に書かれたものを、長くなるのをいとわずに引用しよう。

 「『原子力資料情報室』――今でこそ反原発・脱原発運動の情報センターとしてごく自然に受け入れられ、当たり前の存在となっていますが、20年前なぜ『センター』と命名せず『室』としたのか、これにはそれなりの歴史があります。

 この時期に候補地の住民に原子力の問題点などの情報を送り、反対運動の火をつける役割を果たしたグループとしては、東大、京大、東北大などの若手研究者でつくった全国原子力科学技術者連合(全原連)があります。メンバーは現地住民と寝食を共にするような熱心な働きかけを繰り返し、その後の反原発運動発展への大きな役割を果たしました。また、各地の反原発住民運動を反核運動の中に紹介し、自らの運動として取り組み始めたのが原水爆禁止日本国民会議でした。

 72年、敦賀で開かれた全国活動者会議では関係各県の原水禁と住民団体が参加し、『原発・再処理問題全国共闘会議』の結成と『資料情報センター』設立の方針がうちだされました。前後して、久米三四郎氏、水戸巌氏、市川定夫氏などが、全原連のメンバーとともに住民運動への専門的支援を活発化し、運動は飛躍的に広がりはじめました。

 原水禁は各地の住民運動を主体に各県原水禁、労働組合などによる全国共闘会議をめざして、とりあえず『原発・再処理情報連絡センター』をスタートさせ、その情報紙として『原発斗争情報』を発行しはじめました。しかし、『資料センター』については、各専門家の間に考え方のギャップが大きいこと、『センター』とすると運動の中央司令部的になるおそれがあること、などが指摘され、多様な考え方を持つ専門家の『討論の交差点』、『共同作業の場』として運動とは独立してつくることが最良と判断されました。そして、実際の作業を担う世話人として高木仁三郎氏の了解が得られたことから、75年に武谷三男氏を代表とする『原子力資料情報室』として発足することになったのです」。

 原子力資料情報室設立の呼びかけは、武谷三男、久米三四郎、井上啓の3氏による、6月のことだという。

1976年

 「原発・再処理工場反対運動情報連絡センター」が1972年11月に第1号を出していた『原発斗争情報』が、76年1月発行の第18号から原子力資料情報室編集・発行となる。判型もB4判のチラシ風からB5判8ページの薄い雑誌風に変わった。また、月1回の定期発行として有料購読を募ることになる。

 そんなふうにスタートしてすぐの1976年6月、武谷代表が辞任することとなった。武谷・高木の「時計と金槌論争」が原因だった、と高木さんは「武谷三男さんを悼む」(『原子力資料情報室通信』2000年5月号)で書いている。武谷:「科学者には科学者の役割があり、運動には運動の果たすべき役割がある。時計を金槌代わりにしたら壊れるだけで、時計にも金槌にもならない」高木:「少なくとも金槌の心を持った時計を目指したい」(『市民科学者として生きる』より抜粋)。

 ただし高木さんは追悼文で、「先生が専門志向の理論家で、私が運動志向の活動家で、対立があった、というような性格のものではない」とも書き加えていた。武谷代表辞任を受け、運営委員制に移行した。

1979年

 1979年3月、スリーマイル島原発事故が発生した。奇しくもこの年は、日本における原子力行政の一貫化新体制なるもののスタートの年に当たっている。原発は通商産業大臣、原子力船は運輸大臣、そして、研究・開発段階のものは内閣総理大臣と許認可権をタテ割りにしたのだ。明らかに開発促進を狙った新体制との批判をかわすために、原子力委員会とならんで原子力安全委員会が新たに置かれ、各主務大臣の許認可に際し、行政庁の審査の「ダブルチェック」を行なうこととされた。原子力安全員会の初仕事が、スリーマイル島原発事故への対応だった。

 事故の直後から原子力資料情報室は、情報の分野でも運動の分野でも大きな役割を担うようになる。連日のように科学技術庁、通商産業省、東京電力への抗議・申し入れに参加し、数度にわたって緊急集会を準備・共催し、4月5日には、愛媛の伊方原発反対八西連絡協議会の呼びかけに応えて駆けつけた全国各地の住民と共に通商産業省に全原発の停止を求めた徹夜の交渉にも加わった。また、原子力資料情報室では、アメリカの反原発グループ、研究者らと郵便や電話、ファックスでの情報交換に注力した。前年に、英語名称をCitizens’ Nuclear Information Center(CNIC)と決定していた。

 働きかけの対象が広がったことから、1981年5月の総会で、会員(科学者が多い)に加えて、広くさまざまな方々に賛助会員をお願いすることになる。

1984年

 1984年4月、電気事業連合会が青森県に核燃料サイクル施設立地の協力要請。7月には青森県と六ヶ所村に正式に立地を申し入れた。原子力資料情報室は12月、「核燃料サイクル施設問題を考える県民シンポジウム」に全面協力をしている。

 翌85年4月、青森県が9日の県議会全員協議会で核燃料サイクル施設立地に了解を表明する。以後毎年、「4・9反核燃の日」行動が取り組まれることになり、原子力資料情報室も呼びかけ団体となっている。7月には、「反核燃料サイクル国際交流の集い」に全面協力。以降、核燃料サイクル・プルトニウム利用への闘いは原子力資料情報室の最重要の取り組みとなった。

1986年

 1986年4月、チェルノブイリ原発事故が発生した。原子力資料情報室の活動量はさらに増大。主にドイツのグループとの情報交換に力を注いだ。

 手狭になった事務所を1987年3月、台東区東上野に移転した。合わせて『原発斗争情報』を『原子力資料情報室通信』に改題。5月の総会で、高木さんを代表とした。事務所移転に際しては、78年5月に反原発運動全国連絡会が創刊した『反原発新聞』(のち『はんげんぱつ新聞』)も、港区新橋にあった事務所を引き払って合流した。以後、数度の移転でも合流は続いている。

 この頃のことを高木さんは99年5月の『原子力資料情報室通信』300号で、次のように回想していた。やや長くなるが引用しておく。

 「チェルノブイリの衝撃に直面して、情報室の『食卓にあがった死の灰』が多くの人たちに読まれたということがあり、サポートも増えてきました。『闘争』という問題意識の次元を超えて、ごく一般の生活者の上に放射能が広がり、実際に食卓に放射能がのぼった、そういう状況全体を我々の課題にしなければならないと意識するようになりました。情報室にとっては非常に大きな転換でした。情報室は全国のセンターとか情報の中心になるとかの意識はなく、色々なグループと人たちが取り組んでいるさまざまな営みのひとつとして始めましたが、チェルノブイリ以降になり、日本の中での自分たちの位置を考えると、気負うわけではありませんが、積極的に全体状況へのある種の責任を意識する形で活動するほうがいいのではないかと思いました。運動状況や運動を支える層の変化、社会的ニーズの変化を凝視したのです」。

 文中にある『食卓にあがった死の灰 チェルノブイリ事故による食品汚染』は4月に刊行。8月には、『パート2』を刊行した。

 10月、山鹿順子さんらの協力を得て『NUKE INFO TOKYO』を隔月刊で創刊している。

1988年

 1988年4月、「原発とめよう!1万人行動(当日の参加者数を見て「2万人行動」に改称)」の事務局を原子力資料情報室が担い、さらに脱原発法制定運動へとのめり込んでいくこととなった。脱原発法制定運動は89年1月にスタート。原子力資料情報室も総力で取り組んだ。90年4月の第一次分、91年4月の第二次分を合わせて328万人強の署名を添えてとなく会期末まで放置され、廃案とされた。国会のこと、議員のことを余りにも知らなすぎた、と反省しきりである。結果として何ら具体的な成果をもたらせなかったために、敗北感をより大きくした。その後の反原発運動に痛手となったことは否めない。

1993年

 1993年から法人化の準備を開始している。『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書、2000年)で高木さんが書いているところを、これも長くなるが一部省略しつつ引用したい。

 「法人化しようという話は、1993年頃から進んでいましたが、当時はまだNPO法がなかったので、法人となると社団法人か財団法人になるしかありませんでした。

 社団法人ですと、原子力を司っているのは科学技術庁なので、科学技術庁に申請しなければなりませんでした。そこで科学技術庁に社団法人の申請をしに行きました。その中で一番問題になったのは、原子力資料情報室が公益の名に値するかどうか、公益に資する団体なのかどうか、ということでした。

 原子力資料情報室は定款で脱原発を目指すとうたっています。私たちはこの定款を変えるつもりはありませんでした。表現上はもう少し役所の審査を通りやすい表現に直してもいいけれども、脱原発という基本については変えるつもりはなかったのです。しかし、科学技術庁の役人からは、国の基本的な方針は原子力を推進することであり、それが公益なのだから、脱原発というようなことを言うのは公益に反すると、露骨に言われました」。

 ここで大幅に中略。

 「そこで、我われは確かに批判派だけれども、我われが原子力行政を批判することによって、より健全なエネルギー政策のあり方について提言できるとすれば、それは決して公益に反することにはならないのではないかということを主張して、最終的にはだいたいその点については科学技術庁も認める形になりました」。

 ところが1995年12月、高速増殖原型炉もんじゅでナトリウム漏れ火災事故が発生。科学技術庁との交渉は、けっこう頑張ってくれた役人がいたのも事実だが、この事故で双方が忙しくなり、担当者が替わったりして難航する。

 1998年3月、特定非営利活動促進法が参議院で可決成立し、原子力資料情報室は総会で、社団法人化は断念して特定非営利活動法人を目指すと決定した。認証を得たのは99年9月だった。事務所も電話も契約を個人名でするしかなかった状況から脱し、以降の活動の基礎が形作られた。

1994年

 1994年3月、「原子力長期計画に関するご意見をきく会」に高木代表が出席して意見陳述をした。以後、高木代表だけでなく他のメンバーも同種の会議で意見を述べるようになる。「政府に近づいた」と批判する向きもあったが、それは十分に認識しての出席である。他方で高木代表は、高レベル放射性廃棄物処分懇談会や高速増殖炉懇談会などの委員就任依頼は、原子力政策全体を議論する場でないとして拒否していた。

 原子力政策全体を議論する場だとして伴英幸共同代表が原子力委員会の新計画策定会議委員に参加したのは2004年6月。他の会議委員への参加や他のメンバーの会議委員参加に道をひらいた。

1998年

 1998年8月、がん罹患が判明した高木さんが代表を辞任。共同代表制に移行した。特定非営利活動法人となり、新たな体制や活動の広がりに安心したかのように2000年10月、高木前代表が死去。翌2001年1月、中央省庁再編により原子力行政の中心が旧科学技術庁より強大な力を持つ経済産業省に移って現在に至る。

(西尾 漠)

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