新刊 『科学としての反原発 ― 市民科学ブックス 7 ―』

科学としての反原発 ― 市民科学ブックス 7 ―

科学としての反原発 ― 市民科学ブックス 7 ―

久米 三四郎:著
定価:1,800円+税/発行年月:2010年09月
発行:七つ森書館
四六判/並製/240ページ

内容紹介
全国の反原発住民運動の理論的支柱であり、知恵袋であった核化学者・久米三四郎の魅力を余すところなく伝える!

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目次
はじめに──小木曽美和子

1 原発事故を読み解く
 (1)スリーマイル島原発事故の本質と教訓
 (2)チェルノブイリ原発事故はどのようにして起こったのか

2 原発裁判に臨む
 (1)伊方原発行政訴訟の意義と判決批判
 (2)「もんじゅ」行政訴訟の勝訴を確信した控訴審
 (3)「もんじゅ」事故から見えてくるもの

3 反原発への道
 (1)「ウラン残土」の山に教えられたこと
 (2)反原発への道

評伝 反原発運動の始まりと久米三四郎さん──和田長久

前書きなど
はじめに──小木曽美和子(原子力発電に反対する福井県民会議)

 全国の反原発住民運動の理論的支柱であり、智恵袋であった核化学者久米三四郎さんが、二〇〇九年八月三十一日になくなってから一年になる。原子力研究に情熱を燃やし、やがてそれに疑問を抱いて各地の反原発運動にかかわってきた多くの科学者、研究者の中心的な先駆けの一人である。運動の経験の豊富さもさることながら、次なる時代を見据える洞察力の鋭さが、私たち地域の住民運動に寄り添うように常にあった。

 ここに収録した文章は、久米さんが、運動の相当な部分を割いて取り組んだ課題のごく一部である。

 久米さんが反原発運動に生涯かかわることになった原動力は、住民から思い知らされた「足を踏まれた者の痛み」であると語っている(「反原発への道」)。一九六八年、関西電力が美浜原発に続いて立地を計画した兵庫県香住町(現・香美町)の住民勉強会へ初めて参加したときのことだ。住民から「電気をたくさん使う都会に、まず原発をつくるのが筋ではないですか」と問われ絶句した、と。愛媛県伊方町の住民の要請を受け、日本最初の原発裁判として三〇年にわたり、伊方原発設置許可取り消しの裁判闘争に参加したのは、「足を踏まれた者の痛み」を共有しようとする立場からであった。

 久米さんを発起人に、全国の反原発住民運動の情報交流の場として誕生した『はんげんぱつ新聞』は、一九七八年三月発行の準備0号で、「各地の経験を交流し、反原発運動の連帯を高めよう!」と呼びかけ、今日に至っている。

 アメリカから直輸入し、一九七〇年から七一年にかけて営業運転を開始した日本原子力発電敦賀原発一号機、関西電力美浜原発一号機、東京電力福島第一原発一号機は、運転開始直後から、予期しないトラブルがつづき、計画外の原子炉停止が頻繁におこなわれた。敦賀一号と福島一号では、周辺海域に放射能による魚介類の汚染が検知され、美浜一号では、蒸気発生器の細管破損による放射能漏洩事故が起きた。バラ色の原子力の前宣伝は崩れ、情報の共有化により、原発建設予定地の住民による立地反対運動は激化する時代へと向かう。久米さんは、その火付け人でもあった。

 スリーマイル島原発事故に続き、一九八六年四月二十六日にチェルノブイリ原発事故が起きても、国は、「わが国の安全審査を左右するものではない」とさえ主張。久米さんは早速、国内外の原発では大事故の前兆といえる不気味な故障が起きていると、経済原則が安全第一主義に優先することの危険性を指摘している。

 実際、米国サリー原発で起きた二次系大口径配管のギロチン破断事故、美浜原発三号機の二次系配管蒸気噴出事故は、多数の死傷者を出した。

 長崎の原爆で親友を失い、研究室でプルトニウムを扱う機会を経験した久米さんには、「プルトニウムをトン単位で社会的に扱うことは、決してしてはいけない」との強い思いがある。

 一九九五年十二月八日、高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏えい火災事故が起きた。原子力発電に反対する福井県民会議が設置した「もんじゅナトリウム漏洩火災事故調査」検討委員会の代表となり、動燃(現・日本原子力研究開発機構)、科学技術庁(現・文部科学省)、原子力安全委員会による事故調査報告を徹底的に検証、反論した。六回にわたる「事故調査検討結果報告書」は、名古屋高裁金沢支部で「もんじゅ訴訟」を全面勝訴に導いた。住民に寄り添い、専門知識を噛み砕いて説明する久米さんのやさしく、凛とした主張は、最高裁で敗訴しても生き続ける。

 消費した以上のプルトニウムを増殖すると宣伝してきた「もんじゅ」は二〇一〇年五月、よろめきながらもムリヤリ運転再開に踏み切った。被爆国日本は、地球温暖化対策を装い、広島、長崎の原点を見失ったかのように核拡散に手を貸すインドへの原発輸出にまで手を染めようとしている。経済優先の前に、核廃絶か、核と共に滅びるか、重大な選択がかかる時代にさしかかっている。

 こんな時代だからこそ、反原発運動に残した久米さんの言葉は、ずっしりと重い。困難ではあるが、久米さんが残したメッセージを噛みしめ、核廃絶への新たな時代の糧にしようではありませんか。

著者プロフィール
久米 三四郎(クメ サンシロウ)
1926年、大阪生まれ。大阪帝国大学卒。大阪大学理学部講師として、また、大学退官後も全国の反原発運動の「理論的支柱であり智恵袋」として活躍。きわめて数多くの講演をおこない、講演録がパンフレット化されている。伊方原発訴訟や「もんじゅ」訴訟では原告側の特別保佐人をつとめた。反原発運動全国連絡会が発行する『はんげんぱつ新聞』の生みの親でもあった。 2009年、 83歳で死去。