2005年を展望する(原子力資料情報室通信367号より)

2005年を展望する

伴英幸[共同代表]
(原子力資料情報室通信367号より)

再処理路線が踏襲されたけれど

 原子力委員会は発足50年を迎えることになるが、ちょうど10回目の「原子力研究・開発および利用に関する長期計画(以下、原子力長計)」を策定中である。策定委員の一メンバーとしてたいへんな半年だった。核燃料サイクル政策についての審議から始まった原子力長計策定会議は2004年11月に「中間取りまとめ」を行ない、従来の再処理路線を踏襲した。これを受けて、青森県と地元六ヶ所村、周辺自治体は六ヶ所再処理工場でのウラン試験のための安全協定を日本原燃との間で締結した。ウラン試験は12月中に開始の儀式強行の構えだ。
 1956年の初長計(原子力基本計画)で国産増殖炉を目指すと定められ、50年後にようやく民間初の再処理工場の建設が終わろうとしているが、この間に、目指した増殖炉の実用化は放棄された。再処理が有利とされた状況はすでになくなっている。さらに、コスト的にもたいへん高いことが策定会議を通して明らかになった。私たちは、ウラン試験が強行されても決してあきらめることなく、使用済み燃料を使った本格的な試験(アクティブ試験)前に、計画を断念させるよう運動を強めていきたい。
 六ヶ所再処理工場のアキレス腱とも言えるのがプルトニウム余剰問題だ。再処理をしても取り出したプルトニウムの利用計画がないことだ。曲がりなりにも計画があることを示すため、プルサーマル計画推進への動きが活発化するだろう。プルサーマルに新たに交付金が支給されるようになったこともあって、九州電力と四国電力はプルサーマルの許可申請のゴーサインを県から得て申請した。高燃焼度燃料の利用が進められようとしている中でのプルサーマルである。プルサーマルからの撤退を強く働きかけていきたい。

「もんじゅ」運転再開へ向けた動きが再び焦点に

 1995年12月にナトリウム漏れ火災事故を起こした高速増殖炉原型炉「もんじゅ」の運転再開のための工事入りが大きな問題となる年だろう(最近は「増殖」が取れて、単に高速炉と呼ばれている)。名古屋高裁金沢支部が「もんじゅ」の設置許可処分を無効とした判決からおよそ2年、最高裁は国の上告を受理し3月17日に法廷を開くことを決定した。
 そんな中12月4・5日、福井現地で開催された「もんじゅを廃炉に!全国集会」では、名古屋高裁の決定が覆ることはないとの見通しが原告から報告された。もんじゅ改良工事の許可が国からすでに出ていることから、工事へ入らせない大きな運動を継続していくことが確認された。
 長計策定会議でも研究開発の意味・意義を問い直していきたい。
原発事故で5名の尊い命を失う
 原発老朽化の証がいたるところに見えてきた。何より大きかった事故は、美浜原発3号炉での復水配管破裂事故(8月)だ。5名の尊い命を奪った。負傷者6名のうち、なお2名は重態が続いていると伝えられている。破裂は管が0.4ミリという厚さまでぺらんぺらんに薄くなっていたことが原因だが、当該箇所の減肉検査は28年間1度も行なわれていなかった。
 運転中にもかかわらず定期検査の準備を進めることは定期検査期間の短縮が可能となる一方で、大きな危険を背負い込んでいる。事故は経済性を優先する企業体質を問いただしている。2005年4月からは電力の自由化が一段と進むが、これによって原発の経済性重視の姿勢がいっそう進むとすれば、原発はさらに危険な事故に直面することになるだろう。

老朽原発と地震

 美浜原発事故は原発の老朽化が原因となって起きた。老朽化が進む中ではいっそうの検査充実が行なわれなければならないはずだが、実態は逆で、検査対象にもかかわらず検査されていない部位が数多くあることも明らかになった。地震はこのような傷を抱えた原発に襲いかかる。
 少なくとも4つの断層が動き、震度7の本震と余震の連続だった新潟県中越地震は、地震が老朽原発を襲うときの深刻さを推察させるものだった。原発が建てられた「地震空白域」は、学問が進んだ今ではこれから地震が起きる地域との認識に変わった。特に浜岡原発はいつ地震が起きてもおかしくない状況にある。地震警戒警報の段階から対策を講じることが検討されているが、それで原発震災(地震災害と原発災害の同時発生)を防ぐことができるのか? 疑問は尽きない。
 他方、維持基準の導入に続いて、耐震設計の見直しも行なわれつつあり、指針緩和につながるような動きが出てきている。実質的に基準を引き下げて、確率論的リスク評価(PSA)で引き下げを合理化しようとしている。
 当室が主宰する原発老朽化問題研究会は、原発機器類の材料であるステンレスの亀裂問題を追及してきた。東電の損傷隠し事件を契機として追及は始まった。これまでの研究成果を纏めて発表し、安全重視の追及を広める一助としたい。また、関電の事故で配管の減肉問題が出てきた。同研究会の新たな課題として取り組み始めている。

繰り返される隠蔽、改まらない隠蔽体質

 5月に発覚した関西電力の火力発電所の検査データ不正問題では、単純な転記ミスを含めると8000件にも達し、うち悪質な改ざんやねつ造は101件が確認された。基準値内に検査数値が収まるように書き換えたり、基準値自体を書き直していたりしたという。
 関電の不正では1976年に、美浜原発1号炉での燃料棒折損事故を隠蔽していたと内部告発から明らかになったことがある。破損はこの3年前に起きており、通産省(当時、現経済産業省)が認めたときにはすでに時効(3年)が成立していた。
 中部電力の浜岡原発、東京電力の福島第一原発はコンクリート骨材の試験データ結果を偽造していたことも明らかになった。
 さらに、使用済み燃料の直接処分コストの試算が実は10年も前から折にふれ行なわれていたことも8月に暴露された。経産省のみならず、原子力委員会でも行なわれていた。関係者はそのことを知っていながら「日本では一度もそのような試算を行なったことはない」と隠し続けてきた。国会答弁でも同様だった。
 このように、今日までに幾多の不正が暴露されてきたが、隠蔽工作はいっこうに改まらない。本気で改めようとしているようにも見えない。対策として品質管理の改善や今風のコンプライアンス意識の醸成など、口あたりのいいことが並べられるが、背景についての厳格な分析は見えない。特に最近は原発の設備利用率を上げるために無理な運転が行なわれている。下請け作業員への締め付けもたいへん厳しいようだ。

原子力資料情報室、30周年を迎える

 2005年、当室は設立30年を迎える。1975年9月に原子力資料情報室は設立された。設立当初は常駐者は故高木仁三郎氏ひとりという体制で出発した。同氏の著書『市民科学者として生きる』(岩波新書)によれば、科学者としての役割と住民運動との役割を区分せずに取り組む姿勢がその生き方であり、当室の姿勢として25年以上にわたって続けてきた。
 86年にチェルノブイリ原発事故が起き、各地で湧き上がる脱原発運動とともに当室の活動量もスタッフも一段と増えて、おおむね現在の原子力資料情報室の形ができあがった。75年当時の『原発闘争情報』は、87年に『原子力資料情報室通信』と改題すると共に、新たに隔月発行の英文誌『NUKE INFO TOKYO』を発刊して、今日に至っている。
 2005年は高木氏が亡くなってから5周忌の年でもある。科学者が市民活動家として生き、市民活動家が科学的視点で考える実践の場として、当室は維持されてきた。これまで継続して運営できてきたことは、ひとえに会員・賛助会員のみなさまの暖かい支えがあったからこそである。改めて、みなさまに深く感謝します。
 この30年の時代の流れ・変化を顧み、これからの10年を展望しながら、原子力資料情報室の活動をすすめていきたい。

原子力資料情報室通信とNuke Info Tokyo 原子力資料情報室は、原子力に依存しない社会の実現をめざしてつくられた非営利の調査研究機関です。産業界とは独立した立場から、原子力に関する各種資料の収集や調査研究などを行なっています。
毎年の総会で議決に加わっていただく正会員の方々や、活動の支援をしてくださる賛助会員の方々の会費などに支えられて私たちは活動しています。
どちらの方にも、原子力資料情報室通信(月刊)とパンフレットを発行のつどお届けしています。