パーベルさん『チェルノブィリ事故25周年についての私の考え』&記者会見映像
昨日(2011/4/22)ロシアよりチェルノブイリで被災し、現在も高汚染地域で暮らしながらNGO活動を続けるパーベルさんが来日されました。
記者会見のビデオとパーベルさんの『チェルノブィリ事故25周年についての私の考え』をUPします。
2011/4/22 パーベルさん記者会見 (1/2)
www.ustream.tv/recorded/14202590
※続きのビデオは音声修復中です、のちほどUPいたしますのでお待ち下さい。
チェルノブィリ事故25周年についての私の考え
パーヴェル・ヴドヴィチェンコ(ノヴォズィプコフ)
多くの人たちはチェルノブィリの出来事を単なる事故と思っています。私が思うに、それは大惨事です。なぜなら、それは多くの人命を奪い去り、また奪い去り続けているからです。
原子エネルギー利用は経済的にとても有利なので、ますます発展させなければならないと思っている人たちがいることを私は知っています。
そのようなことを言うのは、1986年4月26日のチェルノブィリ原発事故の結果、被災した地域の現状を知らない人たちか、自分の行動が原子エネルギー利用と直接結びついている人たちです。私は汚染地域に住んでいる人たちの苦しみを見ているので、違う考えをもっています。
残念ながら、現在までウクライナ、ベラルーシとロシアのチェルノブィリ地域の住民がチェルノブィリ原発事故の結果に苦しんでいることは、世界の様々な国々の多くの人たちに知られていません。
多くの問題がこの25年間、我々チェルノブィリ被災者に降りかかってきました。最も有能で社会に向けて十分に教育された若い人たちが故郷から永遠に立ち去り、二度と戻って来ません。我々の病院には医者が足りず、学校には優秀な教師が足りず、企業からはずっと前から優秀な専門家たちが去る一方、新たな技師たちは高放射能地帯へは来たがりません。優秀な労働者たちや農民たちさえますます少なくなっています。これは来る年も来る年も続いています。最も活動的な住民層の離郷は放射能地帯になった村や小都市を衰退へと導きます。我々の地域の高放射能の農産物は競争力がなく、セシウムとストロンチウムに汚染された土地には投資家は足を向ける気がありません。以前、経済的に発展していた地方は、今や衰退しています。
1986年、私は34歳でした。4月末にラジオで、チェルノブィリ原発で小さな事故があったが、人体に危険ではなく、すぐに始末されるだろうという報道がありました。だが、4月29日、私の知り合いの初等軍事教練の教師セルゲイ・シゾーフは偶然、線量計のスイッチを入れ、高い放射能を検出しました。彼はこのことを市と地区の共産党指導者に伝えました。しかし、市と地域の当局はさらにほとんど2週間、放射能がすでに我々の生活圏に到達していることに沈黙していました。この沈黙の時間は住民にとって高いものにつきました。放射性ヨウ素は最初の2週間、数万、数十万の大人たちや子供たちの甲状腺を強く照射しました。後に、数年たって、これは人々の免疫力の低下や、今日、我々の地域に広まっている甲状腺がんを含む一連の特徴的な病気の発生の中に現れ始めました。
本当に残念なことに、当時、移住の資金がなかったために、私は家族と一緒に汚染のない地域に立ち去ることができませんでした。私の妻と息子(9歳でした)は高放射能スポットの真ん中にあったノヴォズィプコフに住み続けました。
放射能(放射性ヨウ素、セシウム、ストロンチウム)は放射性の雲とともに私たちのところにやって来ました。4月末には強い春風が吹いていて、それがチェルノブィリから180kmの私たちのところへこの恐ろしい災いを伴った雨雲を運んで来たのです。放射能は大小のスポットとなって降り注ぎました。とても多くの放射性のちりが私たちの町の周囲の森に見つかりました。放射能は湖や川の水の中にも入り込みました。
短時間で地域全体が汚染されました。政府と私たちの市当局は何をなすべきかを知りませんでした。首尾一貫した合理的な活動を始めるまでに1カ月以上かかりました。それは例えば1か月後(夏に)、すべての児童を汚染のない地域に避難させ、それと同時に住民からすべての雌牛(牛乳の飲用はとても危険でした)、豚やその他の家畜を接取しました。学校と保育園の敷地で上層(20?25cmの土)を除去し始めました。高レベルの汚染を示していた最も古い屋根を葺き替えるなどです。
私たちの村や町は1986年の夏にすっかり静寂に包まれました。ニワトリやガチョウや牛や子豚の声が聞こえませんでした。通りに子供の声がしませんでした。ただ場合によっては自分の仕事の義務を果たすためにやって来る人がいました。私の隣人たちは今でも未来のない生活のあの最初の感覚を戦慄しながら回想しています。
数年後、小さな村々が汚染のない地域に移住し始めました。でも、老人たちはしばしば離れたがらず、自分たちの家に残りました。それもこれらの人々にとってとても大きな悲劇でした。息子たちや娘たちによって新しい場所に連れて行かれた人たちは、自分の村や先祖の墓を恋しがり、しばしば天寿を全うせずに亡くなりました。
なぜ私は社会団体「ラジーミチ‐チェルノブィリの子供たちのために」を結成したか、この団体の目的は何かをお話しします。
町に残って、私は師範学校の教師として働き続けました。私は村の青年男女が人気のなくなっていく学校に戻って来ることが分かっていました。彼らは低学年の生徒たちを教えるだけでなく、去って行った物理、数学、その他の教師たちに替わらなければなりません。
チェルノブィリの災害はゴルバチョフのペレストロイカの時期と重なることになりました。人々は当時、自分たちを自由だと感じ始め、集会に出て行き、政府や地元の役人たちがチェルノブィリ地帯の人々の苦境に注意を向けるよう要求しました。ある時、私もそのような集会で演説しました。私は、美辞麗句では我々は何一つとして解決できないと言い、社会活動に積極的な市民に演壇から下りて老人たちや子供たちや障害者たちのために何かをするよう提案しました。ごみの山を横目にこの集会に来る代わりに、我々は行って我々の通りからそれを片づけなければならないと、私は思い、その時、人々に言いました。
これは多くの人たちに気に入られませんでした。だが、私と学生たちは他のもっと弱い人たちを支援することを通して(精神的意味で)もっと強くなろうと決意しました。1987年に私たちは小さなチェルノブィリの村々の孤立した老人たちと障害児たちへの支援を始めました。このアイデアは若い精力的な学生たちが気に入りました。仕事が始まりました。
学生たちが成人すると、彼らの多くが私のところに戻り、私たちの団体で仕事を続けることを望みました。私たちはさらに新しい仕事のアイデアを探し始めました。それらはチェルノブィリ地域の諸問題に対する回答として浮かんだのです。時折、無関心ではいられない知らない人たちが私たちのところへやって来て、助力を申し出てくれました。
こうして1993年に15歳のアントン(私の息子)は、現在でも活動しているコンピュータクラブを結成しました(これは家にコンピュータがない子供たちにとってとても重要です)。
1993年に女医のオリガ・ジューコヴァはドイツのパートナーたちとともに小児脳性マヒの子供たちの医療の手当てをする診療所を設置しました。今日、ロシア全国やその他の国々から350‐400人の子供たちが私たちの診療所に来て治療を受けています。
1994年に私と学生たちは、学生の小さなNGOに属する、ロシアで最初のキャンプを設置しました。私たちはそれをノヴォケムプ(新しいキャンプ)と命名しました。そこでは毎年夏に最大560人の子供たちが保養し、その中には孤児たち、障害児たち、複雑な事情のある家庭の子供たちがいます。NGO「ラジーミチ‐チェルノブィリの子供たちのために」はロシア、ウクライナ、ベラルーシの放射能で汚染された地域に住んでいる児童やティーンエイジャーたちが休養し、健康を増進することができるようにしました。恒例になった班は合同班、国際班、コンピュータ班、若い画家班などです。
その後、「ラジーミチ」は知恵遅れの児童のために社会復帰センター「ラジーミチ」を創設しました。現在、そこでは重い知的および複合的障害をもつ、6?20歳の15人の児童、青年男女が、教育、発育、復帰に関わる質の高いサービスを受けています。彼らの両親たちは職に就くことができるようになりました。
数年前、私たちはロシアのボランティア活動支援センターを創設しました。この仕事で私たちは若者の間のボランティア精神の向上に影響を与えようとしています。私たちは毎月、他のロシアの都市から来る若いリーダーたちや活動的な学生たちのための課程を教えるセミナーを開いています。それと同時にこのプログラムには約60人の私たちの団体のボランティアが参加しています。彼らはブリャンスク州の養護施設、寄宿学校、保育園に住んでいる児童やティーンエイジャーのための行事を実施し、祭日の祝い、集団ゲーム、フェスティバル、コンクールその他が開催されています。
私たちの甲状腺検査室の医者たちは2004年から私たちの市の全住民の甲状腺を検査しています。目的は甲状腺の病気を発見し、患者の治療援助をすることです。2010年には約2000人が検査を受けました。
私たちはチェルノブィリ情報センターを創設し、そこでは次のことが実施されています。チェルノブィリをテーマとする資料の収集、整理と保管、展示の実施、また、放射能で汚染された地域で安全に暮らすという緊急の問題に関する生徒たちや学生たちへの啓発、健康な生活法の宣伝などです。結果として、2010年にはプログラムに580人の生徒たちと学生たちが参加しました。
NGOラジーミチのボランティアの一人、アンドレイ・タロヴェンコは2000年に若い画家たちの国際コンクール「私は自分の世界を描き、それをあなたに贈る」を開催しました。結果として、毎年300人から500人の若い画家たちが、ロシア、ベラルーシ、インド、ハンガリー、カナダ、アメリカ、セルビア、ウクライナなどからフェスティバルに参加しています。
NGOには青年センター「ラジーミチ」が創設され、その課題は困難な生活状況にある児童やティーンエイジャーに、インターネットカフェに行ったり、体を動かすゲームや卓上のゲームをしたり、ビデオで映画を見たり、創造的な活動に参加したりする可能性を提供すること、また、子供たちのためのゲームや行事を開催することを目的として、青年センター「ラジーミチ」の社会的に意味のある活動へ学生たちを引き入れることです。
放射能地帯に残った私たちは皆、身動きが自由になりませんでした。私たちの多くは立ち去りましたが、他の人たちはそうなりませんでした。何人かの私の友人は両親あるいは親戚が病気だったり、年老いたりして、新しい場所への困難な移住の準備ができませんでした。何人かの友人たちは同僚や部下に対する職業的な責任感が強かったのです。
医者は自分の病院を放り出したくはありませんでした。なぜなら、余りにも多くの彼の同僚たちがよりよい生活を求めてもう立ち去っていたからです。
教師は自分の生徒たちを、ジャーナリストは自分の新聞を、機械修理の職人は自分の修理工場を等々、投げ出すことができませんでした。逆説的な状況が生じました。人は自己保存のためには外へ出なければなりませんが、いくつかの客観的な理由でそうすることができません。そのような人たちを私は状況の人質と名づけます。
福島での悲劇について私は何を言いたいでしょうか。
福島の事故はあらゆる人々に核エネルギーについての考えを変えさせるでしょう。
チェルノブィリ事故の後、西側世界の多くの人たちには、原子力の大惨事がソ連で起きたのは、核施設の生産と操作でテクノロジーに従わなかった罰だと思われていました。
多くの人たちには、高い水準で労働が組織されている他の国々では、そこで原子力エネルギー産業に関わっているのが生産と操作の高い技術を持った尊敬すべき専門家たちであるということからして、そのような大惨事が繰り返されることはありえないように思われていました。
その際、エレクトロニクスとよく訓練された人々によって制御された列車が衝突事故を起こすという多くの事実が黙殺されていました。毎年、航空機の墜落、海の船舶の衝突が起こり、宇宙の軌道から人工衛星が落下します。核テクノロジーでは事故や大惨事はありえないと真面目に考えてきて、今もそう考えている私たちのうちのある人たちは何と自信過剰なことでしょう。
さらにテロもあることを忘れないようにしましょう。そこでは時として余りにありえない場所が選ばれるので、人間の理性はどうしてそのようなことをすることができるのか想像することさえできないのです。
日本の福島で起こっていることはもう1度全世界に、私たち皆が立ち止まって、多くのことを考え直さなければならないことを教えました。歩んできた多くの過程を私たちは人類として今、チェルノブィリと福島の共同の経験から出発しながら、つまり新しい目で見なければならないのだと私は思います。
さもないと(どうかそうなりませんように)私たちはこの不吉な出来事の連鎖の悲しい続きを見ることになるでしょう。
2011年4月
(翻訳:坂本博)