チェルノブイリ原発事故による先天異常と遺伝的影響の兆し-チェルノブイリ・フォーラムの姿勢を問う(『通信』より)
チェルノブイリ原発事故による先天異常と遺伝的影響の兆し-チェルノブイリ・フォーラムの姿勢を問う
『原子力資料情報室通信』387号(2006.9.1)掲載
元広島大学原爆放射能医学研究所長 佐藤幸男
■チェルノブイリ・フォーラムは先天異常増加を否定
2005年9月、国際原子力機関(IAEA)、世界保健機関(WHO)など国連機関やロシア、ベラルーシ、ウクライナ共和国などがチェルノブイリ原発事故20年目に向けて被災の状況をまとめたチェルノブイリ・フォーラムの中でミンスク遺伝性疾患研究所のゲンナジー・ラジュク所長の資料としてベラルーシの非汚染地区での胎児・新生児の先天異常が、汚染地区での先天異常を上回っている図が掲載され(図1)、「現地での先天異常の増加は認められない」との記事を見て、私は目を剥いた。「こんなことはありえない」、私は声にならない言葉を吐いて絶句した。
ラジュク教授と私は、1990年以来、先天異常や遺伝に係わる同学の士として文部省科学研究費、トヨタ財団、カタログハウス刊『通販生活』の読者のカンパによる「チェルノブイリの母子支援募金」などの支援を得て数十回の交流支援を重ねてきた。そして、2006年4月、ミンスクで開催される国際会議での共同発表の準備を進めていた。これまでわれわれが確認しあってきたのは、事故直後からの汚染地区での先天異常の増加であり、チェルノブイリ・フォーラムが示すような図は見たこともない。
その後、年が明けて2006年2月、NHK取材班とともにミンスクでラジュク教授に会い、前述の経過について説明を受けた。
■先天異常児が汚染地区で増加
ラジュク教授らは事故以来、汚染地区での先天異常の増加の有無を確かめる目的で高濃度汚染地のゴメリ、モギリョフなどの地区を厳密に設定し、対照地区には非汚染地区を選んだ(図2右)。
被曝者としては、短期汚染地区居住者、移住者は除き、汚染地区に居住する親から生まれた新生児、および自然・人工妊娠中絶胎児などが顕微解剖や染色体検査の対象となった。その結果、図2右に見られるように、汚染地区での先天異常の増加が認められた。その内容は、二分脊椎、唇裂口蓋裂、多指症、欠指症、ダウン症、心臓や尿路奇形、複合合併奇形など多岐にわたる。
これらの結果はアメリカ、ヨーロッパおよび2001年、2003年にキエフで開かれたIAEA、WHO、被災3共和国などが主催した国際会議でも発表され、公認されている。
ちなみに、ミンスク遺伝疾患研究所は事故より19年前の1967年に設立され、奇形学や人類遺伝学の研究、診断治療に取り組んできた。事故前、事故後を通じてヒト胎児・新生児の剖検数は2万例を超え、末梢血や妊婦の羊水穿刺も含む染色体検査例は2万例に近い。ラジュク教授が示している資料には、ヒトの試料収集のシステム作りや長年にわたる地道な調査と研究の背景がある。
■不適切な汚染地区の設定が原因
ラジュク教授の説明によれば、かねてから遺伝疾患研究所の調査研究に関心を寄せミンスクを訪れていたフランスの某研究所が2~3年前、IAEAからの支援を受け、ミンスクでの先天異常調査を申し込み、汚染地区の設定をラジュク教授とは異なる州単位を主とした区分けを提唱してきた(図2左)。
それによると、汚染地区の中に非汚染地区が混在し、同様に対照地区の中にも汚染地区が混在している。ラジュク教授はこのような区分に異論を唱えたが、得られた結果は図2左にみられるようにラジュク教授の結果と相反し、先天異常の頻度が汚染地区と対照地区でみごとに逆転している。
フランスのグループは図2左右の両方を持ち帰ったが、チェルノブイリ・フォーラム報告書ではラジュク教授の資料は消され、フランスグループの図だけが掲載された(図1)。
ラジュク教授の設定が合目的で正しいと考える私は、同席したNHKのジャーナリストと、この説明を聞いたが、驚きのあまり声も出なかった。ラジュク教授はIAEAに反論したが、結果は変わらないとのことであった。何のために新しい汚染地区の区分が行なわれ、その結果だけが採用されるのか?
私見では、現場での調査に長年携わり被災の実情を体感している研究者がこのような結果を出すはずがない。本件の場合、不適切な汚染地区の設定に問題があるのだが、被災の中間報告を出そうとする場合、会議にはさまざまな資料が提出される。それらを通じて間接的にしか事情を把握し得ない、いわゆる専門家と称される人たちが議論を進める中で、最小公倍数的な結論に誘導されるのは想像に難くない。チェルノブイリ・フォーラム報告書をよく見ればラジュク教授の名前が使用され本人の意思に反した図が採用されているが、執筆者や編集責任者の名前は記されていない。これはもはや学術的報告ではない。不特定なグループによって記された正確さを欠くメモとしか言いようがない。
先天異常の図の件は、これで終わったわけではない。本文の終わりに記すように、チェルノブイリ被曝者の遺伝的影響についても関わってくるのである。
■IAEAの姿勢
私が初めてチェルノブイリの被災の実状調査のため現地を訪れたのは1990年6月だった。そのときの報告は、『憂慮される癌の多発 定住続ければ遺伝的影響も』とのタイトルで中国新聞(1990年8月4日付け)に掲載された。翌1991年の調査時には、人口10万に1人くらいしかみられない小児甲状腺ガンがミンスクの汚染地区の子どもに40例出現していた。現地の医師や被災者たちは早くからその異常に気づいていたが、意外にも政府当局やIAEAから被災者の健康調査を依頼された日本の放射線影響の専門家たちが被曝線量が不明、潜伏期が短い、統計処理が不備、発生のメカニズムが不明などの理由で認めようとはしなかった。
線量の発掘、適切な統計処理、メカニズムの解明などは症例の収集を続けながら同時並行的に行なわれるべきものである。まれな小児甲状腺ガンが多発しているか、否か、一目見ればわかる簡単な現症について長い間不毛の論議が続いた。そのため放射能災害に対処する政府や医療関係者などに対して不信の念が現地や日本の識者らの間に浸透した。数年間で数百例もの小児甲状腺ガンが発生し、WHOはチェルノブイリ事故を除外しては考えられない、とする消去法的説明で認めた。IAEAやWHO、およびいわゆる「科学者」が被災の実情を容易に認めない理由の1つに、ある疾病や異常の発生に放射線依存性が認められないと「科学的証拠」が立証されていないとして切り捨てる姿勢がある。
確かに放射能による疾病、異常、あるいは死亡の原因究明には線量測定、可能ならば個人被曝線量を同定して線量依存性を確かめることは重要な診断基準である。このような作業は広島や長崎の原爆被爆のように爆弾中のウランやプルトニウムの量が明らかで、放射能による災害が同心円状に広がった場合には比較的容易に行なわれた。しかし広島の場合といえども、アメリカ、日本の線量評価の専門家によって長い期間検討され、2回も線量修正が行なわれた。原爆被爆者の調査によって白血病や各種固型ガン、小頭症などを惹起する放射線量の基準の設定には貴重なデータが得られた。しかし、複雑な放射能汚染形態であるチェルノブイリ災害に同じ方式を適応して、それが得られなければ放射能が原因であるとは認めないとするのでは、放射能災害の全体像を知る上で無策というほかはない。被曝者群と対照群の比較において被曝者群に特定疾患数の上昇が有意に認められたならば限りなく放射能の影響が疑わしいと考えるのは当然であろう。
広島でも爆心地から2km以内での被曝を被爆者、2km以遠を対照例として統計処理されている。個人被曝線量もすべての被爆者で判明しているわけではない。10数万人の生存被爆者中の約9万人であり、それは日本の家屋モデルを用いて計算された推定値である。
■放射能災害を見る目
1975年版NHK『核放射線と原爆症』の中で、故飯島宗一先生(広島大学学長、名古屋大学学長を務めた病理学者)は、「ジョンス・ホプキンス大学の実験で発疹チフスがほとんど治癒したサルに中等度の放射線を照射したところ、多くのグループでチフスが再発した。広島の原爆被爆者にみられた症状は、それが原爆の故ではないと完全に証明されないかぎり、放射線が直接、または間接的に身体に影響を与えたものと考えるべきである」と述べられている。私はこのような考え方が内科診断学、あるいは病理診断学の真髄であり、この考え方や表現は決して放射線生物学や線量測定の専門家とも相容れないものではないと考える。
文中、「広島の原爆被爆者」を「チェルノブイリ被災者」とおきかえて考えてみても、まさに然りである。しかし残念なことに、いままで私が接した多くの日本の「科学者たち」は、前記の表現とは異なり、「チェルノブイリ被災者にみられた症状は、それがチェルノブイリ事故の故だと完全に証明されない限り、チェルノブイリが原因だとは言えない」というような表現をする。放射能による影響を過大にも、あるいは過小にも評価しないために、われわれはそれを見る立場と視点をしっかりとおさえておかなければならない。
IAEAに関係する人びとの発言には、被災の状況を過小評価する傾向があるのはたびたび感じるところである。これは常に「科学的」という美名のもとで、調査を行ない診断を下してきたばかりではなさそうなのだ。キエフの国際会議で、原爆被爆者とチェルノブイリの被曝の影響調査で功績のある某著名アメリカ人学者から得られた情報によれば、「人心安定と将来の補償問題も考慮して、事故の影響をおおげさに言ってくれるな」と共和国の政府関係者から頼まれたということであった。原爆被爆者の調査研究で日本政府から表彰されたこともある、この真摯な老学者の説明は端的でわかりやすく、私は信がおけるのだ。被災した共和国からのそのような「錦の御旗」の後ろ盾があればこそ、「原子力発電推進派が被曝の状況を過小評価するのは、みっともない」という羞恥心も無きがごとくにふるまえる人もいるのであろう。
■遺伝的影響の兆し
ミンスク遺伝疾患研究所では、これまでに2万例以上の剖検例と2万例に近い染色体検査を行なってきたことは、すでに述べた。1996年の資料を例にとると、汚染地区での染色体検査では新生児1543例中152例(9.9%)に異常を認め、妊婦の羊水穿刺では1960例中97例(4.9%)に異常を認めた。日本での出生時の染色体異常児の頻度は約0.2%なので、それと比べても現地での頻度は極めて高い。遺伝疾患研究所では数年来、胎児・新生児の剖検例や染色体検査例を整理した。事故前0.3~1.3‰のダウン症が事故後1年で2.6‰に増加し、その後もジグザグながら、やや高値を示し(図3)、しかもその発生地域が、事故後のセシウムを含む雲の流れに沿っていることも水文気象研究所との共同調査で確認された。
遺伝疾患研究所の資料から209組の染色体異常児と、その親たちの染色体所見が抽出され解析に供された。209例中64例がダウン症で、残りの145例もさまざまな染色体異常例である。図4に示すように汚染地区で親に生じた突然変異型の性染色体異常によって、その子どもにダウン症、クラインフェルター症候群のようなトリソミー(三染色体)の染色体異常の疾患が増加している。
ダウン症の多くは受精前の母親の卵細胞分裂時の染色体の「不分離」が原因。その誘因に母親の高年齢出産が知られているが、これら現地の資料では結婚、出産年齢は若く35歳未満の出産だけである。成書にもダウン症は「遺伝による発生のひずみ」の範疇に明記されている。放射能による遺伝的影響が生じる場合、突然変異による親の染色体異常を通じて次世代に染色体疾患として現れるのは充分に考えられることだ。UcidaとCurtisはカナダで、81例のダウン症と、比較として81例の唇裂児の母親の妊娠歴を調べ、いまから約60年前の1947年に、妊娠中に胃・腸管系や尿路系の診断のため腹部レントゲン検査を4回以上受けた母親から生まれたダウン症は81例中23例(28.3%)、同様に4回以上レントゲン検査を受けた母親からの唇裂児は81例の唇裂児中3例(3.7%)で放射線被曝でダウン症が増加することを示唆している。一方では、後述するように広島の被爆者の子どもにはそのような結果が得られていないところからSchullとNeelらの異論もある。
動物実験では親の性腺に放射線を照射して次世代にさまざまの奇形やガンを誘発させた報告は多い。しかし人類ではどのような影響が現れるのか、経験や資料にとぼしい。今後も長期にわたる観察が必要と考えるが、2003年、キエフで開かれたWHO、IAEAや3共和国主催のチェルノブイリ被災者に関する国際会議の終了後に出されたまとめの決議文中には、ラジュク教授らの発表を踏まえて、「高汚染地区に住む被災者に奇形や遺伝性疾患の子どもを出産するリスクが増加している」と明記された。
■チェルノブイリ・フォーラムは遺伝的影響も否定
しかし2006年版のチェルノブイリ・フォーラムは「チェルノブイリの被曝線量では遺伝的影響は起こりえない」としている。現場での地道な調査研究を経験していない「彼ら」は遺伝的影響が生じるとすれば奇形かガン、あるいはメンデルの法則にしたがう優性、劣性遺伝性疾患などが生じるという前提で考え、放射能による遺伝的影響がダウン症のような染色体の疾患として生じているのを承知していないのではないか?
被曝線量について議論するならば、低線量被曝の影響については不明の点も多い。従来の定説としては奇形はある程度のしきい値を超えた線量の被曝でないと生じないとされた。将来の奇形発生率の予測が難しいので非確率的影響と呼ばれ、これに対して遺伝的影響やガンの発生については、人類集団が低線量でも被曝すると将来、ある確率で発生するとされ確率的影響と呼ばれている。すなわち低線量域でも遺伝的影響やガンは起こりうるとする説である。
この点からすると、IAEAの「低線量では遺伝的影響は起こらない」という説は成立しないことになる。さらには、放射線生物学の領域では自然な突然変異によって生じる遺伝的変化を倍増させる放射線量を「倍加線量」と呼んでいる。動物実験結果などを外挿して国連科学委員会は1958年に10~100ラド(代表値30ラド)と発表したが、1966年には代表値を70ラドに引き上げた。そのことで遺伝的影響を予測するための人為的ハードルは高まった。
チェルノブイリの場合、1平方キロメートル当たり40キュリーの汚染地区に20年住むと約30レム(300ミリシーベルト)の被曝線量と換算される。しかし、倍加線量というかなり幅のある推定値をIAEAが遺伝的影響を否定する理由のひとつにしているとすれば、その上に放射線感受性の個人差のバラツキも加味されて、その根拠は希薄と言わざるを得ない。人類は他の種に比べて放射線に対する感受性が強く、個人差はあるが50ミリシーベルト以上で染色体異常を生じ、原爆小頭症は妊娠8~15週の臨界期では200ミリシーベルト以上で増加した。チェルノブイリの被曝によるガンの発生や死亡者数の推定には原爆被爆者調査の結果が参考に供されている。ガンや死亡数はさまざまに推定されても「彼ら」には遺伝を語る根拠がない。なぜなら、原爆被爆者では遺伝的影響についてはポジティブなデータが得られていないからだ。被爆者の次世代の染色体の検索は放射線影響研究所の阿波章夫遺伝学部長(当時)らによって精力的に行なわれた。1967~1984年の結果では、被爆者8322例、対照群7676例が調べられたが、両者間に染色体異常の有意差は認められなかった。ダウン症については対照群にはみられず、被爆群に1例認められた。人類で遺伝的影響が検討され立証されるためには、当然のことながら男女が結婚し次世代が生まれなんらかの異常が認められなければならない。原爆被爆者の多くは亡くなり、罹患し、あるいは不妊となり、あるいは社会的経済的理由で結婚できなかった方も居られたであろう。調査の対象となった方々はさまざまな自然的、人為的淘汰を乗り越えられた方々に相違ない。
その点、チェルノブイリでは親の染色体突然変異を生じ得る低線量放射線が作用し、それを継承した次世代が調査の対象となり得る条件が整っていたと思われる。遺伝的な影響が原爆被爆者の白血病やチェルノブイリの小児甲状腺ガンのように多発することはありえない。流産や死産などさまざまな淘汰が働くからだ。影響が生じたとしてもごくわずかな異常が散発的に生じるに相違ない。
現在は人類の移動がさかんで固定集団での人類遺伝学的調査は困難であるが、1958年の北アイルランドでのStevensonの調査では、一般の人類集団にみられる出生児の異常の頻度は、自然突然変異によって繰り返される遺伝性疾患、常染色体や性染色体異常の疾患、多因子性の奇形、原因不明の異常なども含めて、それらがすべて同時に発生した場合を考慮しても上限は約2~3%である。仮に放射線被曝によって異常が「倍加」したとしても、その頻度は数%どまりであろう。遺伝的影響の長期にわたる観察で重要となってくるのは、このわずかな異常を察知しうる研究者とシステムの存在であろう。現場ではすでにそれが機能しているのである。以上の諸点を勘案するとIAEAが遺伝的影響を否定したのは、早計でかつ根拠にとぼしいといえる。
これまでの経過をみると、IAEAは出先機関に相当する各国の国際学会や会議で公表、承認された事項を本部での会議を通じて無効にする不思議な機能を有している。
■結論
2005年のチェルノブイリ・フォーラムはチェルノブイリ原発事故による先天異常の増加や遺伝的影響について否定したが、私はミンスク遺伝疾患研究所のラジュク所長との15年にわたる共同調査、交流を通じて得られた資料と体験をもとにして、それらへの反論を述べた。
2006年4月のミンスクにおけるWHO、IAEA、被災3共和国などが主催したチェルノブイリ事故20周年の国際会議で、ラジュク教授は汚染地区での先天異常の増加、ダウン症の増加を指標としての遺伝的影響の兆しと長期にわたる観察の必要性など、ラジュク、佐藤らの連名で発表した。この発表に対する反対意見はなく、4人の座長団と聴衆の拍手で承認された。
発表では本文、図3に示す汚染地区でのダウン症増加のスライドが示された。事故直後のダウン症増加のピークは図2右に示される遺伝疾患研究所の調査による先天異常増加と時を同じくして、その上昇ピークの中に含まれている。
しかしチェルノブイリ・フォーラムが示した図1および図2左の汚染地区の先天異常のグラフでは、1986年以降にそのような上昇ピークは認められない。このような視点からみてもチェルノブイリ・フォーラムの図1は事実とはかけ離れたものといえるのである。
(2006年7月24日記)