チェルノブイリ20周年-事故後生まれの「子ども健康研究」報告(『通信』より)
チェルノブイリ20周年-事故後生まれの「子ども健康研究」報告
『原子力資料情報室通信』387号(2006.9.1)掲載
綿貫礼子(サイエンスライター/環境科学)
吉田由布子(「チェルノブイリ」女性ネットワーク)
■人類史的課題として
チェルノブイリの原発惨事から20年目の今年4月、キエフ国際会議では従来の年にも増して厳しい緊張が走っていた。20年という歳月の間には「子ども健康影響」にプライオリティをおく放射線研究が進展してゆき、この原発惨事の惨事たる医学上の意味が改めて提起されていたからであろう。会議場前の広場では、主なる汚染国であるベラルーシ、ロシア、ウクライナをはじめEU諸国の原子力政策転換の動き―”脱原発”志向から推進へ―に対する抗議の旗がなびいていた。
被曝者の健康影響を評価・考察するためにいくつかの国際会議がキエフ・ミンスク・モスクワで開催された。いずれの会議の子ども研究でも甲状腺ガンの多発のみを容認事項とするIAEA報告(2005年)とは相反する見解が提起された。”病気・虚弱の子どもたちが事故後に10年、20年と増加し続けているのは何故か”というのが、会議参加の医学者たちの愁眉が晴れない重要課題の1つであった。
当然ながら、チェルノブイリの健康問題はガンだけにあるのではない。ここで報告するのは20世紀から21世紀にかけて提起されている「人類史的課題」としての放射線の生命/生殖に関する健康影響の問題である。つまり、従来の放射線医学の予見では捉え切れなかった「継世代的影響」が汚染地域に住む子どもたちの特異な健康状態として啓示されているのだ。その現実を見落とすわけにはゆかない。そこにこそ子ども研究は焦点を当てるべきだと私たちは主張してきた。小児ガンや先天異常児多発の問題は他に譲り、この報告ではガン以外の病気を中心に論を進めることとする。
現在、子どもを含め汚染地域住民は3ヵ国で500万人と言われているが、事故後に受胎して生まれた「事故後世代」の健康は、事故当時の子ども世代とは区分けして問題の所在を明らかにしてゆく視角が肝腎である。親の体内汚染が継続しているかぎり、その子どもは発生段階から胎児期の10ヵ月間、放射線の「子宮内曝露」を受けて生まれてくることになる。ゆえに事故時に子どもであった人とは異なる放射線の健康影響を生涯にわたりこうむる可能性が懸念されるからである。そのことは、胎児期の影響を可能な限り減少化するために、彼らの母親となる女性の生殖健康(リプロダクテイブ・ヘルス)が保全されなければならないという重大な課題を含む。これら「子宮内被曝」グループの人数は今後も拡大してゆくことが必至であり、彼らこそ、原発惨事における人類史的意味での最大のハイリスク人口集団と位置付けられよう。
■「環境ホルモン」との比較研究で”目から鱗”
私たちの現場での調査研究は1990年以来16年間続けてきたが、正直のところ事故後10年までは放射線による継世代的健康影響に関する「総体的な問題点」をほとんど把握しきれていなかった。私たちにとって意味ある疫学調査はほとんど見当たらず、いわば各論的な”ばらばら”の情報だけであった。「ならば自分たちのセミナーで討論すべきだ」と思い立ち、キエフとミンスクの遺伝学研究所の協力を得ながら開催にこぎつけたとき、私たちは”目から鱗”の衝撃を受けた。詳細は他(1)に譲るが、21世紀に入って生まれた乳幼児であろうとも、”普通の”しかし”あらゆるタイプの”病によって健康を阻害していることに気づいた。その影響にこそ、重要な解明のヒントがあるのでは……と感じとった。
遺伝学、小児科、産婦人科、疫学、内分泌学、生化学など50人余りの研究者と輪になって討論し、私たちはチェルノブイリで生じている子どもの”健康異変”を、放射線と化学物質との”複眼”で捉え返すべきだと確信した。綿貫は本来ダイオキシン研究から生態系汚染の問題を手がけてきており、チェルノブイリに重ねてベトナム、セベソ、ミナマタなどとの比較研究に没頭した。上述の各専門分野では間尺に合わず、従来の”学”の範疇を超えたところにチェルノブイリの生態学的困難な課題が浮上していることを実感した。ロシアの小児科医リーダーであるバーレバは小児科の枠組みをはみ出す形で、内分泌、産婦人科との共同作業の重要性に気づいたという。06年の報告で「小児期の放射線環境病理学」として子どもの実態を捉え返そうとしているのは意味深い(2)。つまり生態学的原理を抜きにしては今日の医学は現実に見合わないのである。
■私たちの「子ども/未来世代の健康研究」報告
今年私たちは幸いにも3つの国際会議に招かれ、研究発表の機会を持った。それらの要旨を新しい内容も加えて次にまとめた。
1.事故後世代の子どもの健康状態
ウクライナ政府の統計では、この20年間になんらかの慢性疾患に侵されている子どもの割合は86~87年8%、2000年55%、04年78%と増加し続けているのみならず、発病の若年化が見られる。さらに事故後に生まれた世代(ここでは事故処理作業者、高汚染地域からの避難者・移住者、15キュリー/km2未満の汚染地域の住民を親に持つ子どもを指す)の中で「不健康な子ども」の割合も、87年18%、95年68%、2000年75%、04年80%と高まり続けている(6)。これらの事実が、さらにその子孫へと増え続ける事故後世代を私たちが「最大のハイリスクグループ」と呼ぶ所以である。
2.低線量反応の特殊性
この数年における低線量放射線影響研究の進展により、バイスタンダー効果、ゲノムの不安定性、遺伝子発現の変化などが低線量域で観察されている。ロシアのブルラコーワは、低線量で高い影響が出るという逆U字型の非単調な用量応答反応を90年代から指摘してきた。2004年、Hookerらはマウスに2Gyから0.001mGy(1μGy)という超低線量までのX線1回全身照射実験を行ない、脾臓細胞の染色体異常(逆位)の頻度を観察した。対照(内因性頻度)と比較し、0.005~0.01mGy線量域で有意に増加、1~10mGyで有意に減少し、100mGy以上で再び増加する逆U字型の反応を観察した(3、図)。従来は100mGyでも低線量域と扱われているが、超低線量域ではさらに複雑な生物学的反応が示されているのである。
一方「環境ホルモン」の低用量実験でも同様の逆U字型の反応が観察されている。近年では、遺伝子の配列に異常が生じなくても遺伝子発現の変化(エピジェネティクス)による広範な病気と環境ホルモンとの結びつきが注目され、現在急速に研究が進展している。「人間の生殖と発達に関わる複雑さは、遺伝子発現と遺伝子機能での恒久的でエピジェネティックな変化によって変動され得るという徴候が増加している」のである(4)。低線量放射線においても、ガン以外の病気、機能の変化・障害など広範な健康影響研究が求められる。
3.内分泌攪乱作用とセシウムの胎児への移行
上述のように環境汚染物質による「内分泌攪乱作用」の研究が進展するにつれ、ある種の化学物質(環境ホルモン)は微量でもホルモンの信号伝達を狂わせ、遺伝子の発現を変化させるというメカニズムが解明されてきた。またその影響は、生殖系、内分泌系、免疫系、脳神経系で相互に作用し合いながら健康を侵してゆくことも解明されてきている。
チェルノブイリでは、事故時のヨウ素の影響は、たとえガンを発症しなくても甲状腺の機能低下や障害を引き起こしており、さらに時間の経過とともにセシウムなどの複合的な影響も受けている。汚染地の少女・女性には免疫能の低下、内分泌機能の障害を背景とした生殖系の障害、妊娠時には胎盤の形態異常や妊娠異常、流死産の増加、胎児の発育不全など生殖健康への影響が観察されている。ウクライナ小児・産婦人科研究所の研究報告によれば、セシウム137濃度が母体0.74~1.27Bq/kg、胎盤3.48Bq/kg、胎児8.17Bq/kg(肝臓・脾臓・胸腺の合計)という母から胎児への生物濃縮が観察されており(6)、由々しき事態が進行していることが読み取れる。
汚染地域の事故後生まれの子どもにはDNA修復能力の顕著な抑制が観察されている(2)。私たちは当初から、事故時に思春期だった人から生まれた子どもの生殖健康を懸念していた。実際、親が思春期に被曝したグループの子どもでは、先天性発育障害、遺伝病の子どもの出生頻度のみならず、虚弱で多様な病をもつ子どもの頻度の高さが指摘されている(2)。
4.「胎児期起源の病気」として捉える
以上述べた遺伝学や低線量域のこの数年間の新しい科学上の知見は、私たちの問いである「子どもの不健康性の因子/メカニズム」の解明を示唆していると考えている。さらに今日、化学物質では「胎児期に起源をもつ大人の病気」という研究領域が広がってきている。胎児期に”環境ホルモン”のような物質に曝露すると、「その影響は恒久的で、生涯にわたり健康上のリスクが高まってゆく」という指摘は重要である(5)。
チェルノブイリの放射線の場合、事故後世代の子どもたちには大人になる前に早くも「胎児期起源の病気や不健康さ」が蔓延してきているのではないかと、私たちは個々の病気の増減を超えた大きな枠組みで捉えている。
昨年のIAEA報告は、上述した最新の知見による研究、すなわち私たちの考える事故後世代の「胎児期起源」の放射線影響について、検討はおろか言及もしておらず、そのことだけをとりあげても重大な欠陥と言わざるを得ない。汚染地域での居住、汚染物質摂取の継続は、これから生まれてくる未来世代の子どもたちの健康に重要な影響を及ぼし、脆弱な人口集団が増えていくという事態を導くこととなる。早急な包括的研究と医療対策が求められよう。
■私たちの「草の根研究活動」の視座
私たちの「草の根研究活動」の根底には、次のエコロジカルな考え(哲学)を置いている。「人間は自然生態系の一部であり、一部でしかない。身体は『内なる生態系』であり、その内側に『より小さな内なる生態系』と呼べる”子宮”が位置付けられる」。このような考えに支えられている健康観は、何も新しいことではないのだが、改めてチェルノブイリの原発惨事から学び、会議参加者とともに反芻させられたことである。私たちは今後も現地の科学者らと協力し、チェルノブイリの子どもたちの健康研究をさらに進めていくとともに、私たち自身の視点でヒロシマ・ナガサキの未解明の問題を地道に捉え直していきたいと考えている。
私たちが発表したキエフでの会議で、重要な決議文がNGOと政府側の共同で出されたことは意味深い。決議文の内容紹介は別の機会に譲るが、その中の「責任のマニフェスト」の一部を引用し結びとしたい。
*私たち世代が現在の重要な問題を判断するときには必ず、私たちの後に生きる、次世代以後の人々について深く考えねばならない。―エコロジーの原則
*私たちは常に真実を語り、真実を得るために努力する責任がある。―民主主義の基本
チェルノブイリの惨禍は単に旧ソ連だけの問題ではなく、原子力を許容している技術至上社会における我われ世代の生き方、エコロジー思想、ひいては技術の選択如何にも課せられている21世紀の人類全体の課題であろう。
文献
(1)綿貫、吉田:『未来世代への”戦争”が始まっている』岩波書店、2005
(2)Baleva,モスクワ国際会議要旨集, p.4, 2006
(3)Hooker et al.,Radiation Research, 162, p.447, 2004
(4)Portier et al,Endocrine Disrupter NEWS LETTER, vol.9, No1,p.6, 2006
(5)Myers, 環境ホルモン学会特別講演, 2005. 9月
(6)Horishna, “Chernobyl’s Long Shadow”, 2006