「科学的に安全」とは?(3)―ピンポイント放射線を“正当にこわがる”―

『原子力資料情報室通信』第557号(2020/11/1)より

 「科学的に」という修飾語をつけて、人々を納得させようとする上から目線の風潮がある。「科学」は厳正中立であり、文学、美術、感性、あるいは、政治などとは関係ない、という思い込みがあるようだ。条件さえ同じなら、誰が、いつ、どこで追試をしても、同じ結果が得られるのが「科学」だと受け止められているふしがある。しかし、「科学」には、曖昧さが付きまとう。「科学」の本質である。
 「科学的に安全」、「科学的に恐れよ」、「科学的特性マップ」などと使われている。これらは、3・11以来、放射線被ばくを心配する住民・市民に対して、その程度の被ばくなら、心配することはありませんよ、「科学的に安全です」とか、高レベル放射性廃棄物の地層処分地として日本列島を色分けして適地候補の場所を示すさいに、さらに新型コロナ感染の問題で、しばしばお目にかかる表現だが、いただけない。

 

ピンポイント放射線
―アリス・スチュワート

 30年ほど前の1991年11月初め、「国際プルトニウム会議」(グリーンピース・インターナショナルと原子力資料情報室の共催)が埼玉県大宮市で開かれた。基調講演「電離放射線の危険性」でアリス・スチュワート(1906~2002)が『ピンポイント放射線』という表現を用いたことにいたく感心した覚えがある。
 念のためにいうと、当時、英バーミンガム大学の上級研究員だったスチュワートさんは放射線によるガンの疫学的研究について世界的に知られていた。妊娠中の母親が診断目的でエックス線をあびたとき、生まれた子どもの白血病発生率の増加を1958年に疫学的に立証し、世界的に反響を呼んだ。その後も、米ワシントン州にあるハンフォード核施設労働者の発がん率の増加を米国の医学者トーマス・マンクーゾ(1912~2004)とともに裏付けた。低レベル放射線被ばくがもたらす健康影響について最初に明らかにした科学者で、1986年ライト・ライブリフッド賞を受賞した。
 そのスチュワートさんは、「低レベル放射線の危険性についてお話するわけですが、『低レベル』というと、健康に大きな影響はないという印象を与えるので、よい表現ではありません。言い方を変えた方がよいと思います。私は『ピンポイント(針の先)放射線』と呼びたい」とおっしゃる。「『低レベル』であっても、放射線が的に当たると人体は針で刺されたような影響を受けるからです」という。的というのは細胞(人体中には数十兆個の細胞がある)の中にある核のことで、そこに放射線が当たると、遺伝子に突然変異が起こり、これが最終的に人体に影響を与える。的に当たらなければ、影響を受けないわけだが、どんな低いレベルの放射線でも、的に当たれば、影響が出る。放射線の影響とはそういうものであると理解してほしい。通常の有害物質とは違って、放射線の場合、どんなにわずかであっても放射線は突然変異を起こす、と繰り返し強調した。
 スチュワートさんはまた、天然に存在するバックグラウンド放射線もけっして無害ではなく、「人類全体が仕方なく付き合っている放射線です」という。人工的に少量の放射線が付け加わっても、たいしたことはないではないか、という考えを否定して、人間が追加した部分であり、マイナスでしかない。「これによる影響を少しでも減らすように努めなくてはなりません」、と語った。
 東電福島第一原発のメルトダウンのあと、政府は“100ミリシーベルト以下の被ばくは低線量であり、疫学的に有意のリスクは認められない”、“年間20ミリシーベルト、数十年後に年間1ミリシーベルトを目指すとして”、避難の判断をした。『ピンポイント放射線』を懸念することとは全く相容れない考えである。
 相手が人体の場合、放射線を当てて影響を見るという実験は許されない。そこで、可能な限り多数の人たちを対象にして、すでに浴びたであろう放射線の影響を調べるという、疫学の手法をとる。中には、全く影響がみられなかった人たちもいる。だが、誤差の範囲を超えて有意の差が出るならば、どんなに低いレベルの放射線であっても、人体に影響があるという結論を否定するわけにはいかない。崎山比早子さん(高木学校、元国会事故調委員)はLNT(しきい値なしの線型)モデルを社会の通念にすべきだと主張されている。放射線はゼロの時以外は、DNAに一定の確率で傷をつけ、その傷の数は線量に比例して増加する。放射線の持つエネルギーはDNAを形成する原子の結合エネルギーの1.5~2万倍もあるので、放射線がたとえ1本通っても、DNA損傷を起こすのに十分である、と説く。(高木学校 第22回市民講座報告集、2020年7月)。

 

正当にこわがることはむつかしい
―寺田寅彦

 ピンポイント放射線で自分の細胞が傷つく恐れは誰にとってもありうるのだから、心配ないということにはならない。こわいことである。しかし、〈専門家〉たちの中には、モノを知らない大衆だから恐れるのだ、もっと「正しく恐れなさい」と説く人々がいる。この「正しく恐れる」という表現の出どころは、寺田寅彦の最晩年の随筆「小爆発二件」(1935年11月)によるらしい。
 寺田寅彦(1878~1935)といえば、夏目漱石の弟子で、先端的な物理学も研究したが、本来は地球物理学者である。金平糖の角のでき方、藤の実のはじけ方、墨流しのような身のまわりの現象に鋭い観察の眼を向け、科学随筆という分野を確立した人である。「天災は忘れたころにやってくる」という警句を発した人ともいわれる。だが、この表現は、寅彦全集のどこにも無い。
 1935年の4月20日と8月17日に、浅間山で大きな爆発があった。寅彦は8月4日、軽井沢の千ヶ滝(せんがたき)のホテルで、けたたましい爆発音を聞く。4月20日以来の何度目かの小爆発で、噴煙が勢いよく上昇するのを観察し、上昇速度を推算する。噴煙の色に著しい特徴を見る。降灰を双眼顕微鏡で観察し、出来具合を推察する。火口から7キロメートルほどという安全地帯にいたのだが、もし、火口の近くにいたら、命はなかっただろうと考える。沓掛駅で、いま浅間山から降りてきた学生がこれから登ろうという4人づれの登山者に、「なに、なんでもないですよ」とうけあうのを聞いていた駅員は、「いや、そうでないです、そうでないです。」と言う。そこで寅彦は、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」と書いた。これから、「正しく恐れよ」の警句を引出すのは、無理というべきである。
 8月17日の最大の爆発のときには、寅彦は軽井沢の星野温泉にいて、全く気付かなかった。千ヶ滝と星野温泉と、こんなに火山の近くの小区域で音の強度にちがいがあるのにおどろいて、火山の噴火のむつかしさを感ずるのである。

 人間の手が及ばない自然科学の世界の現象を、人間がどう理解でき、評価できるのか、きわめて難しいことである。火山がなぜ爆発するのかは解る。だが、毎回の爆発で全エネルギーに差などがあるだけでなく、どういう型の爆発なのか、いろいろあるらしい。研究が進めば爆発の型と等級の分類ができるかも知れない。現状では、寅彦自身にも解らないことだらけである。浅間山を降りてきた学生もこれから登山する人たちも、なにも知らずに行動している。たぶん経験のある駅員だけが心配する。
 「正しく恐れる」ことなどはできない分野、世界がある。恐れるべき対象の真実の姿が解らないからだ。低レベルの、あるいは低線量の放射線に対して、ピンポイント放射線、ただ1本の放射線が引き起こすであろう現象を想像すると、こわいとうけとめるしかないではないか。

  
 (山口幸夫:不定期掲載)