「科学的に安全」とは?

『原子力資料情報室通信』第550号(2020/4/1)より 

原子力資料情報室共同代表  山口幸夫

 本誌前号の「福島はいま(18)」で、福島で引き起こされた東電原発震災による放射能汚染水の処理、放射能汚染土の再利用、多発とみられる甲状腺がんなど、放射線被ばくに関わるいくつもの問題について、少し別の角度から考えてみる、と書いた。科学・技術の分野で意見が割れているなら、最も批判的・悲観的な見解に従うのが鉄則だというわけである。判断するさいの根拠とされる基準値を疑うということにもなる。

科学の確かさとあいまいさ 

 科学の知見は条件さえ同じであれば、誰が追試をしても同じ結果が得られるのであって、人の感情、政治、経済、宗教、国家などに関係しない。このような見方は大方において受け入れられよう。だが、たとえば、科学者がある物質の性質を解明したとしても、その物質の何から何まで、すべてが分かったということではない。一つの、あるいは、ほんのいくつかの面が明らかにされたに過ぎないのがふつうである。しかも、ある条件のもとでであって、あいまいさは残る。したがって、どの側面に注目するかによって、「科学的には、このように言える」という表現には常に気をつけていなければならない。
 そこで、ある組織や社会が科学の知見を技術分野に適用しようとすると、別の問題が生じてくる。利便性や経済性、また、戦争や国家間の力関係などが優先されるのが通例だが、そのさいに、多少の犠牲はやむなし(何をもって、多少とするか問題だが)となる恐れが出てくる。核エネルギーの利用はまさに好個の例である。
 「科学的には安全だ」という表現を見るとき、ある種のきな臭さを覚えるのはそのような背景があるからだろう。戦争を持ち出さなくとも、過去に、水俣病をはじめ、多くの公害事件で一群の専門家たちが国側に立って主張を繰り返し、国がそれを受け入れた結果、無数の犠牲者が出た。水俣病は1956年に公式に発見されて、未だ終わっていない。 
 複雑な自然環境や一人ひとりの生体状態が一様ではなく、年齢、個人差がつきまとうヒトが相手の場合、実験室内の知見がそのまま通用しないということもある。福島原発震災による放射能・放射線被害についても、よくよく注意しなければならない。

原発処理水のあいまいさ

 2月10日に公表された政府の「多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」報告書では、ほかの核種を十分に取り去ったトリチウムを含む放出水は「科学的に安全性を確認できる」とする考え方に基づいているが、ことさらに風評被害を心配しているようにみえる。風評被害という表現にわたしは違和感を覚えるが、「科学的に安全であることを認めず、よく分からないが怖いから福島の魚介類は買わない」人々によって生ずる被害を言うようである。責任をとらず、信頼されていない東電・国側がいくら「科学的には安全なのに」と言っても、そうですか、とはならない。
 原発処理水問題で「なし崩し放出でいいのか」と批判的な論調の新聞記事でも、「科学的には、放出に伴う健康への影響は極めて小さいことがほぼ明らかになっている」とある。「極めて小さい」、「ほぼ明らかになっている」と言えるのだろうか。
 トリチウム(三重水素)という物質については一通り科学的に明らかにされている。だが、有機物と強く結合している有機結合型トリチウムの海という環境の中での挙動については、ほとんど分かっていない。湾岸の地形・地質や生態系の影響、気候危機のもとでの海流の影響、海中での挙動、海藻類や魚介類にどのように取り込まれて、それがヒトにどのような影響をおよぼすのか。陸上に戻ってそこで発生するかもしれない影響など、これから何十年にもわたる影響を、「国の基準を下回る濃度ならば、海や大気に放出しても科学的に健康に影響はないものだ」と言えるのか。物質も事情もだいぶ異なるが、水俣湾における20世紀最大最悪の公害事件を解き明かした27年に及ぶ化学者たちの苦闘を想わないわけにはいかない(西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社、2001年)。
 どんなに慎重になっても慎重すぎることはない。

基準は年間1ミリシーベルトか?

 放射線被ばくでいうと、放射線の人体におよぼす影響のすべてが分かっているのではない。ヒロシマ・ナガサキ・チェルノブイリを経て、被ばくのレベルや影響については、沢山のことが分かってきている。それを簡単に言うと、「安全線量というものはない」。LNTモデル-線量とその影響の関係は直線的である-を誰もが受け入れているのだ。
 「細胞核に、たった1個あるいは数個程度の放射線の飛跡があっても、人間にガンを引き起こしてしまうし、修復過程に誤りが生じうる。修復機構があることを根拠に安全線量があるなどとは言えない」(ジョン・W・ゴフマン、1981年)。「放射線はDNAに損傷を与えるが、細胞にはDNA損傷を修復する機能が備わっている。放射線による損傷がごくわずかであれば自然の事象との違いは見えない」(上記小委員会報告書、16ページ、2020年)。この違いを私たちはどう考えるか。
 公衆の年間被ばく限度を1ミリシーベルトと勧告しているのは国際放射線防護委員会(ICRP)である。その根拠についてつよい異議を唱えているのが岩見億丈さんで、年間0.013ミリシーベルト未満にせよと主張する。神経内科の医師で福島原発震災後、放射性物質焼却にかんする研究を行っている(本誌528号、2018年6月1日発行)。
 岩見さんは「科学的」という言葉が科学者によって権威的に使われることを批判し、「実用的意味で安全とは何か」を考える。日本産業衛生学会の有害物質の許容濃度等の勧告を参考にする。ただし、許容濃度が安全と危険の明らかな境界を示したものではないこと、濃度だけで有害作用を判断してはならないこと、個人の特性を考慮すべきであること、新知見を加えることを怠らないこと、批判を受けて改善することなどが大事だと注意したうえで、放射線の具体的リスクを論じている。
 放射線の健康障害の研究は発がんに関するものがほとんどで、感染症や心筋梗塞などの血管障害についての知見は十分には無い。また、内部被ばくの研究も不十分なので、外部被ばくに限ってのリスクしか検討できないとことわる。ヒロシマ・ナガサキのデータに基づいたICRPの2007年勧告の発がんリスクを俎上にのせる。線量・線量率効果を考慮して、1万人当たり1人の過剰がん死亡障害リスク(10-4)をもたらす放射線の外部被ばく量を、暴露年齢と男女に分けて岩見さんは表示している。これによれば、もっとも感受性が高いゼロ歳の女性がこの過剰がん死亡リスクを回避するためには、年間0.013ミリシーベルト未満でなければならない。
 それであるのに、ICRPの公衆被ばく限度が年間1ミリシーベルトになったのは、「1回の被ばく1ミリシーベルトによって20歳前後に生ずるリスク」の値を採用してしまったからであった。
 福島原発震災後、100ミリシーベルト未満の被ばくによる発がんリスク増加は疫学的に証明することが困難だという、誤った古い情報が日本政府や御用学者によってばらまかれたことに、岩見さんは憤慨する。2011年以後、5ミリシーベルト前後の被ばくで発がんが増加することを明確に示した複数の疫学研究が医学会にはあると、岩見さんは言うのである。 

(未完、不定期掲載)

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