原子力は文明に逆行する―「いのち」こそ―

『原子力資料情報室通信』第453号(2012/3/1)より

原子力は文明に逆行する
―「いのち」こそ―

原子力資料情報室・共同代表 山口幸夫

 フクシマの現実に真正面から向きあっているのだろうか。政府のいくつもの委員会の審議を聴いていて痛感する。ひとの「いのち」を思いやるより、経済が先だという主張が声高に語られる。原子力なしには電力が不足してわが国はやっていけない、日本の産業が衰退する、国際的な地位が保てない。この三つが原発再稼働の根拠として主張されるのだ。

 生きていくための基盤を、あの3・11以来、どれだけ多くの人たちが奪われたか。飼い主に捨てられ、餓死し、あるいは餌を求めさまよう牛の群れ。ペットも野生の動物も、森林や田畑も、山々も、川や海も、自然そのものが取り返せない状態におちいった。ひとびとは生業を奪われ、人と人の関係もたちきられ、地域社会は崩壊した。汚染土の始末の方法も瓦礫の始末の方法もわからない。除染はきわめて限定的だ。科学技術立国の旗を掲げて、技術大国を誇っていたこの国において。

 福島第一原発の原子炉で、融け落ちたとされる核燃料がどの場所にどのような状態で存在しているのか、いまもって、想像するしかない。放射線量が高くて現場を直にしらべることができない。離れた場所で原子炉の基礎物理量を知って判断するしかない。だが、肝心の基礎物理量は本当に測ることができているのか、疑わしい。2月中旬、2号機の原子炉の温度計が異常値を示した。温度計が示すその値はどの場所の温度を測っているのか。温度計そのものと測定回路は生きているのか。核燃料を冷やすために、汚染水の増量を気にしながら、水を送り込む。収束作業の途中に大きな余震が来ないことをひたすら祈るしかない。こういう現実の中で生きていると、核エネルギーを制御して電力をつくることに科学技術は失敗した、と判断するしかない。

原子力を推進する専門家に倫理がない

 この1年間つづいてきた日本の絶望的な状態をありのままに見ると、原子力は人倫の道に反するものだとおもう。ひとはいかにして生きるかが根本から問い直されているというのに、財界・電力業界・官僚はいうまでもなく、原子力の学者・専門家には、そういうことへの配慮らしきものがまったくうかがわれない。倫理観に欠けている。原子力という科学、技術の世界と倫理とは別ではないかといわれるかも知れないが、そうではない。深く関係している。ここで「倫理」とは、誤解をおそれずに言えば、順境にない他者の気持を推しはかることができ、それにもとづいて自らの言動を律する基準を言う。

 3・11で福島第一原発が制御不能になった事実を踏まえたうえで、原子力の学者・専門家は「国民との信頼回復」が大事だという。「いのち」の危機におののいている人々、このようなことが絶対にあってはならないと思っている人々の信頼をどうやって回復できると考えるのか。原子力を進める自分たちを信頼してほしい、というのだ。国民の信頼を得なければ、原子力をやっていけない、と彼らが考えていることは理解する。同意はしない。信頼はもうないのだ、と認識すべきである。

 新聞が原子力業界から3人の新大綱策定会議委員に相当な金が流れていると報道した。全部で11人のストレステスト意見聴取会委員にも、そういう人が3人も存在している。選んだ原子力委員会も原子力安全・保安院も、それが悪いことだという認識がなかった。指摘されてもなお、そうだ。原子力安全委員会でも委員長はじめ複数の委員が業界から金をうけとっている。その人たちは、研究費としてうけとったのであり、私的なものではない、委員会で肩入れした発言はしていない、と言う。

 アメリカのNRC(原子力規制委員会)は任期中、委員が事業者と同じテーブルにつくことすら禁じている、と伴英幸委員が発言した。これに対して、「利益相反の議論があったが、大学が産業界と連携すると生の現場の経験ができる」(第13回原子力委員会・新大綱策定会議、山名元・京都大学教授)という反発があった。このようにして「原子力ムラ」がつくられていったのである。瓜田に履くつを納れず、李下に冠を正さず、は公人が守るべき古くからの倫理である。

科学者、技術者、市民

 ウランが核分裂することは純粋に科学の世界で発見された。だが、その新しい知識は秘密研究の世界に閉じ込められて、原爆開発に適用された。国際的な軍事・政治情勢のもとに科学者と技術者が大動員されて、ヒロシマ・ナガサキの悲劇がもたらされた。それは、戦後の核軍拡競争のもとになった。

 1954年に日本で突如、原子炉構築予算2億3千5百万円が国会を通った。当時の日本の科学者たちは兵器の研究は拒否したが、自主・民主・公開の3原則を守ることと引き換えに原子力研究を受け入れた。

 始まってからは、核エネルギーの平和利用の名のもとに、技術者が主役の世界になった。国立大学には軒並みに原子力工学科が設置された。政治家と官僚と業界とが学者と一体になって原子力を進めた。これが「原子力ムラ」の成り立ちであった。ジャーナリズムも国民一般もこれを応援した。

 知的好奇心に基づいて研究を進めることと、その研究が人道に反するかもしれないときにどうするかは、なかなか難しい問題である。これまで、無数といっていい議論がなされてきた。倫理の問題に立ち返って考えるというのがわたしの立場である。とくに、原子力発電の場合、被曝労働者の存在と核廃棄物の処分問題とが隠されたまま、エネルギーの安定供給、安価で絶対安全と喧伝され続けた。これには、ジャーナリズムも教育界も法曹界も従った。

 スリーマイル島原発事故(1979年)につづいてチェルノブイリ事故(1986年)が起こった。そうして、2011年フクシマである。原子力は制御できない技術だと断定してよい。技術者たちが「安全第一に」と言っても信頼することはできない。原子力から撤退すべきだと感じている市民が多数であることをいくつもの世論調査が示している。エネルギーをもっと上手に使おう、放射能におびえながら高度工業化社会の利便性を享受するよりも、安全に、安心して生きたい、「いのち」こそが大切だと選択した日本の市民たちが現在の大多数である。

 技術の選択をするのは市民であること、専門家は参考人にすぎないこと、大事な政策は市民たちが決めること。このような新しい社会を実現させなければならない時代の入り口に、わたしたちは立っている。

 

 

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