異例の審議経過―耐震指針検討分科会(『通信』より)

異例の審議経過―耐震指針検討分科会

『原子力資料情報室通信』388号(2006.10.1)掲載

湯浅欽史(原発老朽化問題研究会)

※湯浅「原発耐震指針改訂への感慨」(『科学・社会・人間』97号2006.7掲載)および湯浅「原子力発電所 耐震設計指針の改訂」(エントロピー学会『えんとろぴい』58号掲載予定)も併せて参照されたい

■審議会行政といわれるもの

 審議会行政という言葉があります。60年代の高度成長期、通産省がMITIの名で海外に知られて“日本株式会社”とも揶揄され、産・官・学、三者が一体となってGNPを年率2桁超のスピードで拡大し続けました。本省の課長たちが国全体の実権を握り、各分野の方針をたて、御用学者を集めた審議会で科学性と中立性を装い、法律を制定し政省令を発し、行政指導で業界を仕切っていました。
 水俣病や四日市喘息によって環境保全も行政の課題となり、1973年の石油ショックを契機に、重化学工業中心の産業構造から“軽薄短小”へと転換が図られました。従来の役所イメージにはなかった環境庁の活躍や排出規制の強化に、時代の変化を感じたものでした。今思うと、その内容を決めてきたのも全くの審議会行政でした。総資本の利益代表を自負する官僚が主導し、何が必要かではなく何が可能か(reasonably achievable)という産業保護の作文を示し、審議会のお墨つきを得て、実施したのでした。

 90年代に入って、非和解的に対立する住民・市民の声に耳を傾けるポーズが、統治者にとって必要になってきます。三里塚闘争の円卓会議(93年)や原子力政策円卓会議(96年)が典型でしょう。情報公開が法律で定められ、政府資料がインターネットで入手可能となり、審議会を傍聴して委員の人柄を知ることができ、議事録を読むこともできます。住民派からも委員が選ばれ、反対意見の根拠とそれが葬られる経緯を追うことができます。原子力分野では、九州大学・吉岡斉さんや原子力資料情報室・伴英幸さんの活躍は記憶に新しいところです。とはいえ、官僚が作成したシナリオに沿って、予定された日程で原案が微修正されたに過ぎません。為政者のやり口が鮮明に浮き彫りにされる効果があったにしても。

 原発の耐震指針検討分科会は、私が初めて傍聴する審議会なので他と比較はできませんが、私が抱いていた審議会像とは大きく異なるものでした。神戸大学・石橋克彦教授の参加が決定的でした。石橋さんは毎回文書で意見を出し、事務局案と対比した具体的な修文案を用意し、原則的かつ柔軟な発言を積極的に行ないました。辞任を表明するまで、事務局による改訂案とりまとめ作業への協力的姿勢を、石橋さんは最後まで崩しませんでした。

■通常の進行ペースの前半

 2001年7月10日第1回分科会で青山主査と大竹主査代理を選出し、前年度の依託調査成果の報告を受けて審議はスタートしました。第3回で、基本/施設/地震・地震動、三つのワーキンググループ(WG)の設置と各検討項目を、第4回でそれらの構成員を決めました。各WGは翌年2月から3月にかけて審議を開始し、基本WGと施設WGは03年7月末に結果をとりまとめ、8/20の第6回分科会に報告しました。

 審議会行政の通例であれば、すでに10回も開催されていた地震・地震動WGは、とりまとめを同じく第6回分科会に報告していたことでしょう。2、3回の審議で事務局案に微小な表現の修正を加えて、あとは主査一任として、おそらく年内にはパブリックコメントにかける案文ができ上り、遅くとも03年度内には新指針が誕生していたのではないでしょうか。

 基本WG全7回の実質的審議内容としては、海外における地震PSA(Probabilistic Safety Assessment)と確率的安全評価の概要だけ、といえます。施設WG全8回の審議内容は、機器類等の重要度分類、日本電気協会の技術指針、建築基準法の地震力、ならびに、上下地震動について、剛構造規定削除について、岩盤支持規定の削除について、地震随伴事象について、でした。10回までの地震・地震動WGでは、活断層の調査・評価手法、鳥取県西部地震(00年)、スラブ内地震、断層モデルによる評価法、剛構造・岩盤支持の削除、上下地震動を考慮した評価法、そして、現行マグニチュード(M)6.5に代る「震源を特定しにくい地震等の評価」が審議されていました。

 地震・地震動WGでは、その後も「震源を特定せず」地震動、その確率論的評価、鳥取県西部地震、地震地体構造、地震動の不確定性評価、そして、活断層と震源断層の関係や活断層調査の高度化、について審議を続けました。12回(12/1)で検討状況を整理して第7回分科会に報告し、最終16回(4/28)で最終報告をまとめ、第9回分科会に提出しています。

 第8回分科会(2/27)の議題には、今後の審議スケジュール、主要論点、確率論的アプローチ、地震PSA、岩盤支持・剛構造の削除、といった重要項目が並んでいました。結論に近づいたというよりも、ようやく指針改訂の問題点が明確になって、仕切り直し的に審議が本格化することになった、といえるでしょう。ここからがII期ともいうべき約1年間です。その04年度では、第9回から第16回まで、残余のリスク(安全余裕)、地震PSA、確率論的安全評価といった項目が審議されました。

■後半は超過密スケジュール

 05年度はラストスパートのIII期で、第16回(05.3.31)から第43回(06.4.28)まで、超過密日程で分科会が開催されました。残余のリスクは、その存在を認知されるだけで定量的評価は見送られ、確率論的評価手法の影は薄くなります。

 改訂の中心となる基準地震動Ssの策定について、震源を特定して策定する地震動と震源を特定せず策定する地震動とに二分して、III期の議論は進められました。「震源を特定して」では、まず内陸地殻内地震(いわゆる直下型)とプレート間地震および海洋プレート内地震の三種に分類して、現行指針と同じように、活断層の性質から検討用地震を選定します。そして同じ検討用地震を用いて、二つの独立な方法で基準地震動Ssを導きます。一つは現行指針と同じく、設計用応答スペクトルを設定する方法(いわゆる大崎の方法)であり、もう一つは断層モデルを用いる方法です。

 「震源を特定せず」では、鳥取西部地震などの教訓から、活断層と関連づけにくい地震の震源近傍での観測記録を各地から収集し、それらを包絡するような応答スペクトルを設定し、基準地震動Ssを作ります。それは現行指針の「直下型M6.5」に代るもので、地震発生環境にかかわりなく全国どこででも起りうるものと考えます。実際には、それに原発サイトの地盤条件を加味します。

 最後に、「震源を特定して」の応答スペクトルによるもの、同じく断層モデルによるもの、そして「震源を特定せず」の、三つの基準地震動Ssをどのように数値的に評価するかの検討を申請者に求めています。

 「震源を特定して」の議論は主に活断層をめぐるものでした。まず、活断層という言葉が一人歩きしている現状から、活断層を地震変動地形の一つとして相対化することです。ついで、どのくらい昔に動いたのか、現行の評価期間5万年を、約13万年に延ばしました。これが大きく報道されています。しかし、現行で用いられている松田式は、地表で観測される活断層ではなく地下の震源断層に適用されるべきこと、短い断層には使えないこと、複数の地表地震断層が地下で連動している可能性が高いことなど、個別原発の審査で批判視されてきたことは、残念なことに明確には文章化されませんでした。松田式は断層の長さから地震のマグニチュードを推定する経験式なので、短い2本の断層なのか、それとも連続した長い1本なのかでは、大違いなのです。

 05.8.16宮城県沖地震によって女川原発での地震動が設計地震動を超えました(本誌382号、拙稿)。経験的に応答スペクトルを決める大崎の方法では、原発サイトの地震動が過小評価されてしまうことが実証された事件なので、分科会でも4回にわたって討議されました。

 第23回分科会(7/27)に改訂の骨子が事務局から示され、第25回には骨子の一部が文案として提示されました。第31回(11/17)からは本文および解説のテキスト原案について、審議過程で出された意見を取捨選択して盛り込んだ事務局原案が、毎回書き替えられて示されました。そして第43回(4/28)でパブリックコメントにかける分科会案が決定されたのでした。

 パブリックコメントは5/24から6/22の1ヶ月間で、約700件もの意見が寄せられ、指針改訂への関心の高さがうかがわれます。指針改訂とは直接関係がない119件を除いて、事務局による分類は次の通りです。剛構造・岩盤支持や残余のリスク【3.基本方針】が257件、活断層調査の方法や「震源を特定せず」の地震規模【5.基準地震動の策定】が121件、弾性設計用地震動Sdと基準地震動Ssの比など【6.耐震設計方針】が52件、地殻変動/余震/共通要因故障【7.地震随伴事象】が63件。

■行政手続法によるパブコメ審議

 パブコメに寄せられた意見をどのように新指針に反映させるのか、そして約700件それぞれに対してどのように回答するのか。この膨大な作業が第44回(7/4)から第48回(8/28)まで続けられました。回数だけでなく、2時間の予定が3時間、4時間に及ぶ熱のこもった審議も「パブコメ後の処理」としては異例だったのではないでしょうか。これも石橋さんの活躍なしにはありえないものでした。

 実質的に審議が始まった冒頭で、06年4月1日に施行されたばかりの改正行政手続法を根拠に、応募した意見を十分に考慮する必要性を、石橋さんは文書で示しました(分科会資料番号45-5-1)。99年閣議決定された従来の意見提出手続とは異なり、行政手続法第31条で「法的に」義務づけられたこと、総務省のホームページの流れ図を示して、修正があるか否かを十分に審議する義務があること、を強く主張しました。それを受けた形で今後の進め方が議論されました。各委員から修正提案があるパブコメと修正提案がないパブコメとに二分し、まず、パブコメを受けとめることによって各委員から出された修正提案に関して、改訂指針案を逐条的に審議していくことになりました。

 おそらくこれまでの審議会であったなら、パブコメ後の字句修正を原則避けるようにしてきたと思われますが、合理的なら反映されるべしとの、麻生国務大臣の総務委員会答弁(05.6.9)をふまえてすすみ始めました。現行重要度分類の呼称As、A、B、Cを、AをAsに格上げして、クラスI、II、IIIとしていましたが、構造設計の機器区分で1、2、3が用いられており、混同によるヒューマンエラーを回避するためにはS、B、Cという呼称が望ましいとの意見が、現場の設計技術者と思われる方(整理番号 E082)から出されていました。石橋さんは真先にこれに賛意を表し、決定されました。この第45回では他に、【はしがき】で「当時における新たな知見」を「当時の知見」に修正したり、「耐震設計の妥当性」を「耐震設計方針の妥当性」に修正したりしました。また、【基準地震動の策定】の解説で「地形・リニアメント調査」が「変動地形学的調査」に変更されたのは、実質のある修正です。気付いた限り改善する、という雰囲気でスタートしたのでした。

 第46回(8/8)は、【はしがき】から【耐震設計上の重要度分類】までおさらいしてから、いよいよ核心の【基準地震動の策定】です。石橋さんから改めて「宍道(しんじ)断層を巡る重大問題とそれへの対応」(同46-8-1)が提出され、中田高氏ら研究グループがトレンチ調査で、原子力安全委員会の判断(05.4)や質問主意書への答弁書(05.7)を否定する断層が確認されたことを、地図入りで説明されました。そして、阪神淡路大震災や鳥取県西部地震と同等の深刻な意味を持つこと、したがって敷地近傍の活断層調査が信頼できるとの前提で作られてきた改訂指針案を全面的に見直す必要が主張され、これをめぐる激しい議論が展開されました。

 もう一つの大きな論点は、「震源を特定せず」地震動の策定において収集する震源近傍の地震観測記録として、「震源と活断層を関連づけることが困難な」という限定を外すべきだという石橋さんの主張をめぐってです。活断層と関連するような震源は必ず見逃さない、という大前提で付けられた修飾語は取った方がよいということです。しかし、この修飾語を外すと既往最大の地震動記録ということになってしまい、活断層調査そのものに対する熱意が失われる、などといった反対論で採用されませんでした。

 最終の第48回では、前回の事務局案で取り入れられていた修正の議論が、元に戻された事務局案として出されてきました。「敷地周辺の活断層」に関して「最終間氷期の地質又は地形面」の「面」が外されていたのに「面」が復活し、【基準地震動の策定】の(4)内陸地殻内地震の震源として想定される断層の「内陸地殻内地震の」という修飾語が外され、また、その項で石橋案が採用されていた「トレンチ掘削調査」も外されました。

 この事態に直面して石橋さんは、①行政手続法に従って応募意見を尊重すべきだ、②中田氏らの宍道断層の知見は個別サイトに限られず一般的な問題である、ことを挙げ、第47回から第48回への事務局案の後退では、委員として社会的責任がとれず、パブコメへの背信になるとして、辞任を表明しました。そして、指針検討分科会で多くのことを学んできたが、その“正体”も分った、と辞任の弁を結びました。

 5年間にわたる石橋さんの奮闘によって、審議会行政が新しい局面に入ったと考えています。学科長としての多忙な職務の傍らに果たされた石橋さんのご努力に深く感謝するとともに、今後の原発をめぐる動きを監視してゆきたいと思います。
(2006.9.5)

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