『被曝労働ホットライン』開設のお知らせ
『被曝労働ホットライン』開設のお知らせ
5月23日の長尾さんの裁判判決の翌日と翌々日
5月24日(土)と25日(日)の両日
午前10時~午後5時
原発で働き被曝した労働者、放射線作業従事者、離職してから健康に障害がでてきた人たちの相談窓口として『被曝労働ホットライン』を開設します。
電話番号(全日本造船機械労働組合)
0120ー00ー2385
責任団体:全造船機械石川島分会
『被曝労働ホットライン』へのお問い合わせは
同分会 内山俊一(携帯電話:090?4094?2597)
または、長尾労災裁判を支援する会(下記担当者)
●神奈川労災職業病センター(担当:川本浩之)
横浜市鶴見区豊岡町20ー9 サンコーポ豊岡505
TEL:045ー573ー4289
●原子力資料情報室(担当:渡辺美紀子)
東京都新宿区住吉町8ー5 曙橋コーポ2階B
TEL:03ー3357ー3800
石川島プラント建設の社員であった長尾光明さんが、2004年10月に東京電力を提訴した裁判は、いよいよ5月23日に判決を迎えます。
昨年12月7日の結審にあたって、原告の鈴木篤弁護団長から、本人の声を聞いてほしいと、
長尾さんの最終意見陳述が口頭で補足されました。
「私は1977年10月から82年1月まで、東京電力福島第一原発の配管工事に従事して大量の放射線被曝をあびました。退職後98年に第3頚椎と左鎖骨が骨折し、多発性骨髄腫と診断されました。07年10月からは右鎖骨にも骨髄腫ができ入院中です。
原因は放射線被曝であり、阪南中央病院の村田三郎医師にも診てもらい、国も労災として認定しました。しかし、東電は私が診察も受けていない清水一之医師が、多発性骨髄腫の診断は偽りであるという意見書を出してきました。
私が働いた時期にアルファ各種の放射性物質が大量に放出されていたことも明らかになりました。原子力発電所での仕事はほんとうに苦しいものでしたが、私は精一杯働いてきました。その結果が多発性骨髄腫です。もし原発で働くことがなかったら、今のような苦しみを背負うこともなかったと思うと、ほんとうにくやしくてなりません。
私は現在、病床にあって法廷で意見を述べることはできませんが、日本の原子力発電所の暗闇を照らすような判決を下されることを切に願います」
(長尾さんの最終意見陳述書より要旨)
長尾光明さんの最終意見陳述書全文は、原子力資料情報室のホームページに掲載しています。
cnic.jp/593
長尾さんは結審の6日後の12月13日、容態が急変し、お亡くなりになりました。享年82歳でした。
私たちは、長尾さんの体調の良いうちに本人尋問の実施を求め、2006年4月6日、東京から大阪の法廷に出張するかたちで行なわれました。尋問の中で長尾さんは、東京電力や石川島プラント建設が、放射線被曝のリスクを説明することもなく、十分な安全教育も行なっていなかったこと、分厚い防護服を着て高温の劣悪な作業現場で働いたことなどを証言しました。
長尾さんの労災を申請するに至るまでの過程は実に困難なものでした。苦しい病気と闘いながら自ら手がかりを求め、ようやく支援グループに出会えたのです。
いつも原発でいっしょに働いた仲間や若い人たちが病気や健康不安に苦しんでいることを思い、「私のあとに続いてほしい。そのためにも勝たなくては」と、強い意志で闘っておられました。
私たちは、被曝から20年後に発症した「多発性骨髄腫」を白血病以外で初めて労災認定を勝ちとったことは、日本の原発労災認定のせまい扉を開ける第一歩となりました。長尾さんの労災認定、そして「原子力損害の賠償に関する法律」に基づいて東京電力に民事損害賠償を求める裁判を提訴した事実と意義をたくさんの人に知らせたいと思います。
また、現在健康被害に苦しんでいる原発被曝労働者を掘り起こし、支援し、救済する運動を広げていくこと、さらに被曝の低減、健康管理手帳の交付、健康保障を要求するなどは、原発で働く労働者の実態を明らかにすることとともに、私たちの大きな課題です。
生前の長尾光明さん 撮影:樋口健二さん