2月3・4日 「幌延深地層研究センターに関する要請行動」報告

幌延深地層研究センターに関する要請行動が2月3・4日に行われた。同行動の主催は北海道平和運動フォーラム。中村誠吾フォーラム代表や長田秀樹事務局長に加え、北海道生活クラブ生協の主婦たちや核廃棄物施設誘致に反対する道北連絡協議会の久世薫嗣代表、幌延現地監視委員会の本田正特別監視員ら、大人や子供含めて10名が北海道より上京し、研究主体の日本原子力研究開発機構(JAEA)や経済産業省、文部科学省、原子力環境整備機構(NUMO)などに要請した。原水爆禁止日本国民会議に加え、当情報室から西尾漠、澤井正子、伴英幸らが同行した。

また、3日夜には日比谷で「NO! 核のゴミ 高レベル放射性廃棄物の最終処分を考える東京集会」が開催され、現地の実情や思いが報告された。

幌延町での貯蔵工学センター計画(当時)が公表されたのは1984年。計画では高レベル放射性廃棄物の処分研究のほか、ガラス固化体2000本、低レベル廃棄物20万本相当などが貯蔵される内容だった。これに地元や周辺自治体が強く反対するものの、実施主体の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が翌年11月23日に夜陰に紛れて現地入りし地上踏査を実施、翌年には機動隊に守られて資機材の搬入を強行した。

1990年に北海道議会が貯蔵工学センター立地反対を決議し計画は凍結状態になったが、その後、1998年に同センター計画を白紙にし、深地層研究のみへと衣替えした。そして、放射性物質を持ち込まないことを条件に研究施設を受け入れることになった。研究期間は20年程度とされ、その後は施設を埋戻し、更地に戻すことになっている。

幌延町では2000年に町内への核廃棄物の持ち込みを認めない条例が、北海道では高レベル放射性廃棄物は受け入れ難いとする条例が成立した。また同年、当時の科学技術庁立会のもと、動燃・幌延町・北海道の3者間で「核抜き」「情報公開」などの協定を締結した。

こうした条例や協定があるのだから、北海道に放射性廃棄物の処分場が建設されることはないはずだ。にもかかわらず、道民の間には1985年の強行踏査以来、政府やJAEAが幌延を処分場にするのではないかと、根強い不信が続いている。それは、原子力委員長が地下研究施設で放射性核種を用いた研究をするべしと発言(2008年)したり、宮本明幌延町長が町議会答弁で地域経済界の方々が勉強することは構わないと述べたり、NUMO理事長が北海道も文献調査の対象に含まれると言った発言を繰り返しているからだ。地層処分の基礎研究を進めるJAEAと処分実施主体のNUMOとの人事交流が続いていることも不信をまねいている。

さて、要請結果だが、JAEAは最初の回答で、研究施設を閉鎖することになっているので埋め戻すが、地元の意向があれば地上施設を残すこともあり得る、地元の了解なしに研究期間を延長することはないと、曖昧な返事をしていた。その後のやり取りで、更地にもどすこと、20年を大幅に越えることはないことなどを発言していた。期間にかんしては、今年9月に第2期の研究成果の取りまとめと次の計画を公表するとのこと。

近藤昭一議員の仲介で政府への要請は議員会館で行われた。文科省は状況を把握していなかった。経産省は伊藤正雄放射性廃棄物等対策室長が対応したが、彼は、地元自治体からの要請があればこれに対応せざるを得ないとしつつ、道条例がある限り国から文献調査の申入れは行わないと明言した。NUMOは要請内容の直接の担当ではないのでコメントできないことが多かったが、ただJAEAとの共同研究は実施していないこと、応募があっても条例はよく知っているので、自治体で調整してほしいと答える(直接には受け取らない)といった内容だった。なお、NUMOの広報部は非常に丁寧な対応だったが、同席していた立地部は横柄な対応で極めて対照的だった。日常的な仕事内容(立地部は地元有力者の工作が仕事と思われる)の違いが対応にここまで現れるのかと思った。

これらの話し合いの内容通りに、北海道に申し入れることはないのか、それとも役職担当者が変わってこれらの言質は白紙になってしまうのか、やはり根深い不信はすぐには解けそうもない。

(報告:伴英幸)

要請文:要請文はすべて同じ内容を各機関へ渡した