美浜3号配管事故に関する保安院・関電のシナリオは「7月中旬に未検査を認識し放置を指示」報道と両立するのか

美浜3号配管事故に関する保安院・関電のシナリオは
「7月中旬に未検査を認識し放置を指示」報道と両立するのか

関連記事
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・美浜3号機の破断した配管が未点検であることを、関西電力が事故の1ヶ月前には知っていたという新聞報道に関連した質問書
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やはり、事故の一年以上前から関電は知っていた:

読売新聞2007年2月24日
www.yomiuri.co.jp/national/news/20070224i106.htm
“美浜原発、事故前年に破損個所未点検を上層部に伝えず”
「グループ会社[日本アーム]が、事故の前年、関電の複数の担当者に、3号機では破損した個所を含む約30か所で配管の主要な部位の点検が行われておらず、不具合が起こる可能性があると報告していた」「同社は03年6月、旧若狭支社の機械補修の複数の担当者らに、定期検査ごとの点検個所を倍に増やし、監視を強化すべきだと訴えた。担当者が具体的なデータの提示を求めたため、日本アームは同年7月ごろ、当初から継続的な監視が必要とされた配管の部位のうち、未点検個所が3発電所の計11基で700か所以上あることなどを報告したという」

なお共同通信2004.8.10記事では、日本アームが関電に伝達したのは2003年7月より早い2003年4月としている。
「日本アームによると、美浜原発に常駐する同社の技術系社員が昨[2003]年4月、関西電力の現場の担当者に未点検であることを相談。……美浜、高浜、大飯の関電の3原発に、日本アームは技術系社員6-8人を常駐させ、関電の担当者との間で日常的にこうした相談をしており、……過去の点検データなどに基づいて未点検場所はそれぞれが把握しており、現場担当者レベルでは、破損場所が未点検であることは分かっていたはずだ」としている」

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【問題の原点】

2004年8月9日の関西電力美浜原発3号炉配管事故について、被害者や住民の立場に立ち、なぜ起きたのか、なぜ防げなかったのか、を考えるためには、関西電力が配管破断箇所のリスト漏れ・未検査をいつどのようにして認識し、認識したあと検査や余寿命評価などどのようなリアクションをとったのか、とらなかったのかを、事実に即して解明する必要がある。

【従来の情報】

 原子力安全・保安院および原子力安全委員会の事故調査委員会には、上記の点に関する強い問題意識すら無かったといってよく、独自調査や詳しいドキュメントもない。保安院事故調の最終局面において関西電力が、
「平成16年7月の大飯1号機のその他部位(主給水管)減肉トラブルを受け、若狭支社は、その他部位も含め次回定期検査で追加点検すべき箇所を抽出するよう各発電所に指示した。美浜発電所は、この指示を受け、点検リストのチェック作業を進める中で、未点検箇所の一部として当該部位を抽出したが、既に次回定期検査において点検する計画であったことを確認した」
と記した報告書(2005年3月1日)
www.kepco.co.jp/pressre/2005/pdf/0301_1_6.pdf#page=29
を出したが、それを追認したままである。保安院はこの点の詳細に関して、大飯減肉
www.nsc.go.jp/anzen/shidai/genan2004/genan053/siryo4.pdf
を受けて7月23日に関西電力本店から若狭支社に調査指示文書を発出、7月30日に若狭支社から各発電所サイトに調査指示文書を発出、「未点検箇所の一部として当該部位を抽出した」のは8月3~4日ころだと説明してきた。他方、事故調終了後も福井県警は関西電力に対する捜査を行ってきた。当時の若狭支社長や補修担当者が1月中にも書類送検されるという。

【読売新聞の報道】

 読売新聞は県警の捜査状況と並行して、「7月中旬」には関西電力が事故箇所の未検査問題に気づいていたとして、以下の報道を行ってきた。これは「8月3~4日頃」に気づいた、という関電・保安院のシナリオが成り立たないか、少なくとも事故の全貌を表していない可能性を示すものである。

 すなわち、2005年8月10日の記事で、
「破損個所が28年間未点検のまま放置されていたことに、同発電所が事故1か月前に気づいていた」「県警は、遅くても、1か月前には事故を予見し、未然に防げた可能性が高いと判断」「県警が同発電所の捜索で押収した資料などから、調査過程で、同発電所機械保修課の複数職員が遅くても7月中旬には、運転開始以来、配管が一度も点検されていなかったことに気づいていた」
と記している。これは「8月3~4日ころ」に気づいたという保安院の説明に疑問を生じさせるものであり、「捜索で押収した資料」も存在することが示されている。

 また2007年1月7日の記事でも、以下のとおり記している。
「福井県警捜査本部(敦賀署)は、事故の約1か月前に関電旧若狭支社(原子力事業本部に統合)が実施した調査で、破損個所が同機の運転開始以来、28年間点検されず、耐用年数が過ぎた可能性があることを知りながら、点検を先送りしたため事故を招いたと断定。」「美浜3号機では同[7]月中旬、破損個所を含め、耐用年数を過ぎた可能性のある未点検個所が約30か所あることが判明した。ところが、同支社は、配管のすり減り具合を推定する計算式で耐用年数を確認するなどの措置を取らず、、未点検個所の点検は調査結果が出た直後ではなく、通常の定期検査で行うよう各発電所に指示。」「同[若狭]支社(原子力事業本部に統合)は、事故の約1か月前に行った調査で、耐用年数を過ぎた可能性がある個所に気づきながら、点検を先送りしていた。……同[7]月中旬、美浜3号機では、運転開始以来、28年間点検されていなかった個所など、未点検個所が約30か所あることが判明していた。ところが、同支社は、耐用年数を確認するなどの措置を取らず、通常の定期検査で対処するよう、発電所に指示していた。」
osaka.yomiuri.co.jp/news/20070107p101.htm
www.yomiuri.co.jp/national/news/20070107it02.htm

 この2007年1月7日の記事では、2005年8月10日の記事にもある「7月中旬に気づいていた」という点の箇所数(約30箇所)のほか、若狭支社が「未点検個所の点検は調査結果が出た直後ではなく、通常の定期検査で行うよう各発電所に指示」していたという情報が追加されている。「指示」したということは定期検査まで未点検で済ませるよう指示したオリジナル文書が存在するということであり、県警がそれを押収しているかもしれないということである。

 いずれにせよこの「指示」は未点検をすでに認識していたことを前提としたものである。

【複数のシナリオの整合性】

 繰り返しになるが、保安院の説明では、大飯減肉を受けて7月23日に関西電力本店から若狭支社に調査指示文書を発出、7月30日に若狭支社から各発電所サイトに指示文書を発出、8月3~4日ころに「未点検箇所の一部として当該部位を抽出した」(関電報告書2005/3/1)したというシナリオであった。

 しかし整合性はあるのだろうか。7月23日に関西電力本店から若狭支社に、また7月30日に若狭支社から各発電所サイトに、調査指示文書が出たというより前の「7月中旬」から、すでに事故箇所の未検査は認識されていたというのである。未検査が認識されたのは「事故の約1か月前に行った調査」によるというのであるから、調査指示自体、7月23日や7月30日でなく、7月中旬より以前に発出されていなければならない。

 また、関西電力の2005年3月1日の報告書は「点検リストのチェック作業を進める中で、未点検箇所の一部として当該部位を抽出したが、既に次回定期検査において点検する計画であったことを確認した」というが、「次回定期検査において点検する計画であった」というのは、単にみずから、しかも未検査であることを認識した上で、「未点検個所の点検は調査結果が出た直後ではなく、通常の定期検査で行うよう各発電所に指示」していたからにすぎないのではなかろうか。定期検査で検査するよう「指示」が出ていたのであれば、「既に次回定期検査において点検する計画」となっていたのはその意味では当然であろう。2005年3月1日の関西電力報告書は、未検査箇所の検査を定検まで引き延ばすとの指示の存在について言及しておらず、むしろ言及することを避けるための記述になっているのではないだろうか。問題はその「指示」の詳細である。

 読売新聞はこの「指示」が何月何日であったかを明記していない。しかし文脈上は、7月中旬(~下旬)、遅くとも7月中にはこの延期指示をしたことを前提として記事が書かれていると見える。保安院のいう、7月23日の関電本店から若狭支社への指示文書、7月30日の若狭支社から各発電所への指示文書が存在するのであればそれらはもちろんのこと、読売報道に従えば7月中旬以前に発出されていなければならないことなる配管状況調査の「指示文書」や、その結果未検査を認識しつつ調査を延期したという「指示文書」も、本来は事故調が独自に入手公開していなければならないものであって、いずれも早急に一般公開されるべきである。

 若狭支社はいつ事故箇所の未点検に気づいたのか。県警・読売のように7月中旬には気づき、未点検を認識しつつ定検で済ませるよう指示まで出していたのか。だとすれば、報告書で「点検リストのチェック作業を進める中で、未点検箇所の一部として当該部位を抽出したが、既に次回定期検査において点検する計画であったことを確認した」と記したのみの関西電力のシナリオ、7月30日にようやく若狭支社が未点検の有無に関する調査指示文書を出し、8月3~4日ころにようやく未点検に気づいたという保安院のシナリオは何だったのか。いずれにしても、関電の事故調査と情報公開のあり方はもとより、踏み込んだ調査を行わなかった事故調の存在意義も問われる。

【さらに別のシナリオ】

 ただ上記読売記事も関電報告書も、大飯減肉が契機となったという点においては軌を一にしているようである。しかし事故直後の初期報道は異なるものであった。読売新聞は2004年8月10日の記事で、
「日本アーム」(本社・大阪市)が昨[2003]年11月、破損個所が同様の原発では交換・補修されているのに、これまで点検されていなかったため同発電所の機械保修課の担当者に点検を提案した。この時に同発電所担当者は初めて検査漏れに気付いた。担当者は、破損個所の前後にある配管曲折部と、同じ構造の美浜2号機にある同様配管の摩耗が少ないなどを理由に、破損配管部分も「大丈夫だろう」と漠然と判断したという」
と記し、つづいて2004年8月11日の記事でも、
「美浜3号機については、検査会社「日本アーム」(本社・大阪市)が昨年4月、データ入力システム変更のために点検項目を再調査した際、2か所の対象漏れを把握。同11月に美浜原発の機材保修課の担当者に点検を提案した。しかし担当者は、付近の他の配管の状況などから「大丈夫だろう」と判断、本社などに連絡せず、今月14日から始まる予定だった定期検査で調べることにしたという。」と記し、いずれもきわめて具体的であった。この情報はどこに行ったのだろうか。「2003年11月」に美浜発電所担当者が検査漏れに気づいていたのだとすれば、事故の「1ヶ月前」どころか9ヶ月前となるのである。

  情報 認識した契機 関西電力が未検査を認識した時期 余寿命評価の有無 指示と発見の流れ 対策
シナリオA 初期報道(例・読売) 日本アームからの連絡・提案 2003年(11月) 不明    
シナリオB 読売新聞 大飯減肉 2004年7月中旬 「配管のすり減り具合を推定する計算式で耐用年数を確認するなどの措置を取らず」(読売2007/1/7) 「旧若狭支社は、……県内にある同社原発11基の2次系配管を調査」「美浜3号機では同月中旬、破損個所を含め、耐用年数を過ぎた可能性のある未点検個所が約30か所あることが判明した」「未点検個所の点検は調査結果が出た直後ではなく、通常の定期検査で行うよう各発電所に指示」(読売2007/1/7) ただちに検査せず2004年8月14日からの定検で検査を予定
シナリオC 保安院・関電 大飯減肉 「点検リストのチェック作業を進める中で、未点検箇所の一部として当該部位を抽出したが、既に次回定期検査において点検する計画であったことを確認した」(関電報告書2005/3/1)とあるのは具体的には2004年8月3~4日頃(保安院) 不明 大飯減肉を受けて7月23日に関電本店から若狭支社に調査指示、7月30日に若狭支社から各発電所に調査指示(保安院) ただちに検査せず2004年8月14日からの定検で検査を予定

※シナリオAとBの複合も可能であろう。たとえば美浜発電所の現場レベル(保修担当者など)では2003年から認識されており、2004年7月に大飯減肉を受けた調査指示があったときに上の階層へ報告した、等。またいずれのシナリオにおいても、未検査であることが判明済みである配管の真下に労働者を入れたことに違いはない。

 なおこの議論では冒頭に述べたとおり、「関西電力が配管破断箇所のリスト漏れ・未検査をいつどのようにして認識し、認識したあと検査や余寿命評価などどのようなリアクションをとったのか、とらなかったのか」を論点とし、配管管理指針の制定前後以降の長い年月における配管管理の「逸脱の標準化」過程(いわゆる「不適切な配管管理の常態化」)などをめぐる問題については今までに掲載してきた記事に委ねた。関西電力の2004年夏における振舞(未検査の配管の検査を先延ばしすることの正当化)は、非公式の配管管理手法が、長年にわたる「逸脱の標準化」の過程を繰り返すことで歴史的に拡大・正当化されてきた果てにあり、最後に破綻したものである。