さようなら原発福島フィールドワーク報告

『原子力資料情報室通信』第578号(2022/781)より

 

2022年6月17日から18日まで、1泊2日で「さようなら原発1000万人アクション」主催の福島フィールドワークに参加した。21人が参加し、バスで原発事故関連の施設をめぐりながら、被災者の声も聞いた。フィールドワークの内容をまとめてみたい。

富岡町の特定廃棄物埋立処分施設と東電廃炉資料館

 6月17日午前に東京を出発したバスがまず向かった先は、福島県・富岡町の郊外にある特定廃棄物埋立処分施設だ。この施設は、既存の処分場(旧・フクシマエコテッククリーンセンター)を、2016年に環境省が国有化したもので、2017年から特定廃棄物の運搬を開始した。ここで処分されるものは、特定廃棄物のうち、8,000Bq/kg以上10万Bq/kg以下の下水汚泥や牧草、稲わらの焼却灰などに加え、双葉郡8町村の生活ごみも含まれる。除染作業で出た汚染土壌は対象外だ。埋立作業の期間は、特定廃棄物が6年間、双葉郡8町村の生活ごみが10年間で、埋め立て完了後もモニタリングは続けるという。2022年5月までにフレコンバッグで約23万袋分が施設に搬入されたそうだ。

 この埋め立て処分施設は、地面に遮水シートを敷くなど漏水の処置も行われている。浸出水調整槽や処理施設も敷設され、放射線量モニタリングも実施されている。このような構造は管理型処分といわれる。一方、コンクリートピットを設置して、水が廃棄物に接しないようにする遮蔽型施設の方が、放射性物質の遮蔽機能が高い。福島県外の特定廃棄物処分場は遮蔽型施設にする予定だ。福島県だけなぜ管理型施設にしたのか、疑問が残った。

 その次に向かったのは富岡町の市街地にある東京電力廃炉資料館だ。福島第一原発の廃炉作業に関する説明の他にも、福島原発事故の原因や賠償問題、復興への責任に関する展示もある。展示内容は、一見反省のトーンはあるものの、東電にとって都合の悪い情報はことごとく省いていた。具体的には、事故の原因については、あれだけの津波を予想できず、対処を怠ったという説明だけで、2002年の津波地震を予測した「長期評価」をめぐって裁判で争っている事実の紹介はなかった。事故直後の対処に関しては、吉田昌郎所長付部長だった石川真澄氏が映画「Fukushima 50」の話題を出しながら、ひたすら使命感を持って事故収拾にあたったことを強調するインタビュー映像を流していた。しかし社内マニュアルに従えば、事故の3日後にはメルトダウンと判断できたのに公表せず、5年間隠ぺいした事実や、事故の収拾がつかなければ、半径250km圏内の約3,000万人が避難する可能性を示した原子力委員会の「最悪のシナリオ」は紹介されていなかった。廃炉に関しては、30~40年でできるという既存の計画を正当化する説明だけだった。一方、冠水工法が無理だと判明し、空冷工法を採用したものの、それが技術的にどれほど困難かについては、説明不足だっ

た。汚染水問題に関しては、流すのが前提であり、福島漁民との約束を破っている事実は説明せず、風評被害が生じたら、しっかり補償するという主張だけだった。このようなご都合主義一辺倒の展示内容に、東電の反省の色は見えなかった。

東京電力廃炉資料館

 

双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館と浪江町の大堀相馬焼「春山窯」

 相馬市の旅館に一泊した後、浪江町の伝統工芸品である大堀相馬焼の案内人の渡辺博之さんと合流し、双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館を訪れた。福島県がここを運営している。展示内容は、事故の悲惨さや被害の重大さよりも、復興に向けて頑張る姿を強調していた。例えば、事故後に子どもはたくましく育った、優しくなったという教師の声は映像で紹介する一方、30%超の避難者が今もPTSDで苦しんでいる研究結果があるなど、過酷な現実を想像させるような当事者の証言はなかった。甲状腺がんの多発は、被曝との因果関係を否定する学者の声のみが紹介されていた。福島イノベーションコーストは、肯定的な面のみ強調されて、その施設に疑問を持つ住民の訴えはなかった。仮設住宅がどんどん減っている記述はあるが、区域外避難者への住宅補助打ち切りを批判する声はなかった。避難を権利として要求する声、東電の責任を追及する声、故郷をうしなった苦しみやそれを故郷喪失慰謝料として求める声は、ほぼ排除されていた。国や県の復興ストーリーに沿う声だけが伝承されていた。ガイドの渡辺さんも、この展示内容を嘆いていた。原発事故の悲劇を共有し、それを後世に伝え、原発に頼らない社会を作ろうというような記憶の継承のあり方をすべきではないか。

 その後、大堀相馬焼の窯元が集う浪江町の集落を訪問した。この大堀地区ではすべての住民が避難をした。窯元の一つ、春山窯の自宅兼アトリエの姿は悲惨だった。そこでは、震災直後に止まった時計や崩れ落ちて割れた陶芸、地割れが起こった床など事故直後の生々しさが残っていた。数百年受け継いできた生活が根こそぎ奪われた現実を思うと、原発事故への怒りが自然と湧いてきた。空間線量率は、訪問した中では最も高く1.5~1.8μSv/hあった。渡辺さんによると、事故前は、21ヶ所の窯元があったが、事故後全滅、その後、避難先で14ヵ所が再開されたとのことだった。

 

大堀相馬焼「春山窯」

地震の爪痕がまだ生々しく残る

 

飯舘村の再生利用実証実験事業

 最後に、飯舘村長泥地区にある除染土の再生利用実証実験事業を見学した。全村避難となった飯舘村は2017年3月末に避難が解除されたが、空間線量率が高かった長泥地区は唯一、帰宅困難区域として残った。2018年4月に特定復興再生拠点区域の復興再生計画が認定され、11月にはその一環として、環境省が再生利用実証事業を開始した。この事業は、再生資材化ヤードと農地造成及び作物栽培実証事業の2つがメインだ。除染土の再生利用は8,000Bq/kg以下から可能というのが国の方針だが、農地の盛土として使用する場合は5,000Bq/kg以下としている。そのため再生資材化ヤードに送られる除染土も、フレコンバッグに詰められた5,000Bq/kg以下のものだ。まずトラックスキャンと呼ばれる放射能濃度測定機器でチェックを行う。そこを通過したものは、ウォータージェットで破袋し、大きな異物や金属類を取り除き、必要に応じて改質材を添加し、ふるいにかけた後、農地盛土用の再生資材として利用される。

 作物栽培実証事業では、再生資材化ヤードを通過した除染土をまず盛土として使用する。さらに追加被曝を低減するため、50cm以上の覆土を行う。見学の時は、トルコキキョウやアジサイ、バラなど花卉栽培のみが行われており、農作物は見当たらなかった。資料では2020年度と2021年度に収穫された農作物の放射性セシウム濃度は0.1~2.5Bq/kgと記述されていた。花卉栽培の面積は小さかったが、盛土造成作業をしている土地がまだ大きく残っていたため、これから規模が大きくなると思われる。除染土の再生利用を福島県民や国民が本当に望んでいるのか、社会的な議論がないまま事業だけが進む現状に、大きな疑問を感じた。 

 

再生利用実証実験事業の様子

(高野 聡)

 

 

 

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