東海再処理事故で起きた火災・爆発事故を振り返る
東海再処理事故で起きた火災・爆発事故を振り返る
伴英幸
東海再処理工場で起きた火災・爆発事故から10年が経過した。事故が何だったのかを簡単に振り返っておきたい。
火災事故は1997年3月11日午前10時6分に茨城県東海村にある東海再処理工場内の低レベル放射性廃液をアスファルトと一緒にドラム缶に固めるための施設(アスファルト固化処理施設)で起きた。消火が不十分だったため、この10時間後に施設は爆発した。分厚い鉛の扉はひっくり返り、ハッチが飛び、窓ガラスは砕け散った。極めて微量だが、放射能はつくば市でも観測された。日本の原子力施設の爆発事故としては最悪のものだった。再発防止への教訓のため、施設は現在も「記念碑」的に保存されている。
作業員の被ばくは112人に達した。後のJCO臨界事故で記録が塗り替えられるが、当時、作業員の被ばくの点でも悪い記録を更新した。
この施設では再処理工程で使用した工程洗浄水やドレン、放射能測定のためのサンプル液などをアスファルトと混ぜてドラム缶に固める。分類の上では、低レベル放射性廃棄物であるが、プルトニウムやヨウ素129など長寿命の放射能も含まれている点で厄介であり、原発からの低レベル放射性廃棄物とは区別される。放射能量はドラム缶1本当たり300億ベクレル。
ドラム缶の中で発熱反応が起こり自然発火したのだが、このメカニズムについては必ずしも特定できたとはいえない。事故が起きてみるとさまざまな原因や欠陥が明らかになった。ドラム缶の発生量を減らす(つまりは放射能濃度を高くする)ために運転条件を変えたが、この変更にたいする安全チェックは行なわれなかったこと。さらに、運転中に計画外に別の廃液を受け入れ、通常よりも急いで処理したこと。目視でも通常とは異なり、混合液はトロトロの状態だったが、特別のチェックは行なわれなかったこと。アスファルトと廃液を混合する機器(エクストルーダ)の出口に取り付けられている温度計は故障したまま(何年も使われていた)で、出口温度のチェックは行なわれていなかったことなどだ。アスファルトを使う方式に伴う火災の危険が以前から指摘されていた。しかし、国の安全審査においてもこの発火の可能性について審査はされていなかった。なお、施設の所有者であった動力炉核燃料開発事業団(動燃、当時)は、以降、コンクリート固化方式へと変更した。
火災に際しては十分な噴水による消火をマニュアルに記していたが、実際には作業員は早々に現場を離れた。放射能漏れの警報がけたたましく鳴っている状況ではやむを得ない面もあった。作業員は現場に戻って消火を目で確認したと発表された。これが間違いであったことはすぐに判ったが、動燃はあえて訂正しなかった。そして後に、国が設置した事故調査委員会が行なった作業員への面接調査に際しては、作業員に目視確認をしたと虚偽の報告をするように強要したのだった。
1995年12月に「もんじゅ」でナトリウム漏えい火災事故が起きて1年数ヶ月、度重なる事故に動燃への批判が高まり組織改革へとつながった。そして、核燃料サイクル開発機構が誕生した。動燃が抱える一部の事業(ウラン探鉱など)をそぎ落としながらも基本的には名称変更に留まったといえる。1998年10月のことである。この核燃料サイクル開発機構は、行政改革の流れの中で2005年10月には日本原子力研究所(原研)と合併して日本原子力開発機構となった。もともと動燃は、研究優先の原研から開発を重視して分派し、1967年10月に発足したのだが、ほぼ50年後に再び一緒になった。これはまた、動燃が手がけた国産動力炉開発の失敗や高速増殖炉開発の頓挫の歴史でもある。