2017年を迎えて 原子力政策を根本から変えるために

『原子力資料情報室通信』第511号(2017/1/1)より

 

2017年を迎えて 原子力政策を根本から変えるために

新しい年である。だが、寿ぎたい気分は遠くへ押しやられて、これからの1年が平和で安全でありうるか、大きな懸念を抱えこんだ気持になる。アメリカ大統領選の背景を見て、その眼で中東、ヨーロッパ、アフリカだけでなくアジアを見るとき、いままで、なんとか均衡を保ってきた現代世界の政治状況が、地球規模で軋みながら壊れはじめているのではないかと危惧される。その危うさの中で、核兵器と原発をめぐる状況もまた、不安と非論理とにさらされている。
東京電力福島第一原発の事故の深刻さが時間の経過につれて隠しおおせなくなった。社会的、経済的、技術的に、先が見とおせない状態に陥った。平安に生きたい人たちの心と暮らしと健康を、境遇を、将来への希望を奪い、どん底に突き落としておいて、事故を引き起こした側の人たちと組織には反省らしきものが見られない。倫理規範がない。責任をとろうとせずに、原発再稼働につきすすむ。暮れの12月14日、日本原燃株式会社のウラン濃縮工場の安全管理について虚偽報告が確認された。信じ難い。
原発は本質的に危険であり、コントロール出来なくなる可能性をもった技術であることは疑いえない。原子力規制委員会の規制基準に適合したとしても、「安全性を保証するものではない」と規制委員長自身がくりかえし明言する。基準そのものが不十分であり、安全性を保証できる手立てがないのだ。そのうえ、原発から必ず生ずる放射性廃棄物を地下に埋め捨てる地層処分の安全性には確証がない。やってみるしかない、というのが国の姿勢である。さらに基本的に、原発は誰かを犠牲にしないかぎりは成り立たない発電システムである。このような現実を、半世紀以上もの長い時間をかけて、私たち日本の市民は学んだのである。電力は社会にとって必要なエネルギーにはちがいないが、それを原発に頼ることは絶対悪といえるのではないかとおもう。
ラッセル・アインシュタイン声明に署名した日本の指導的物理学者の一人は、「原子力の解放は一方で原子力発電その他を可能にした。これにも問題はあるけれども、一応よろしいとしていいでしょう。しかし、他方では核兵器を生み出した。これはいけない。善悪ははっきりしている。核兵器は絶対悪と考えて、それをなくさなければならない」と語ったと伝えられる。まず核兵器が生み出されたと語るべきだが、それは措くとして、原子力発電は「一応はよろしい」では済まされるものではないことが長い年月と、フクシマをはじめとして、この間に起こった無数の負の事実によって判明したのである。

 

エネルギー政策の破たん
核エネルギーを核兵器に利用するのは絶対悪だが、核エネルギーから無限ともいえる電力をとりだすことは「平和利用」であると夢が語られた時代があった。その時代に、発電しながら消費した以上のプルトニウムを生み出す夢の原子炉として「もんじゅ」が夢想された。その「もんじゅ」を中核とする核燃料サイクルが日本のエネルギー政策の根幹として採用され、関連するもろもろの原子力政策がつくられ、福島事故までに50基を超える原発がこの地震列島に建設されてしまった。
科学の世界の原理に基づいて人類に希望をもたらす技術が可能となるならば、それは歓迎である。ただし、その技術が同時に災厄をもたらす可能性があれば、おいそれと受け入れるわけにはゆかない。夢想ではなく現実問題であるとみなして、最初に徹底的な検討をし、途中で中止する選択肢をもちつつ、恒常的な検証作業を続けることが不可欠であった。しかも、この作業には、推進する専門家(官僚、政治家、学者)だけではなく、批判的な専門家と市民とが彼らと同じ資格で参加していなければならない。足尾鉱毒事件に始まる近代、現代の公害・環境破壊の歴史が教えるところである。ミナマタは公式確認から60年して、未だ解決されていない。フクシマもまた、そのようになるおそ惧れがある。
経産省が中心になった「高速炉開発会議」という組織が去年9月に発足した。核燃料サイクルを継続するための議論をするという。「もんじゅ」の燃料増殖はあきらめたが、使用済み燃料を再処理し、MOX燃料に加工して、ナトリウム冷却の新しい原子炉で燃やすという計画である。さる11月30日の第3回会議では、2018年をめどに新しい高速炉開発の工程表を策定する案を決めた。それを経産大臣・文科大臣・電気事業連合会会長・日本原子力研究開発機構理事長・三菱重工社長で構成された会議でおおむね了承した。「もんじゅ」はどこで、どのように失敗したのか。その総括をあきらかにせずに、原発の存続を掲げる官庁と利益を追求する企業とだけで決定する。常軌を逸している。
原子力安全員会などで重責を担った学者たちが、次々に「もんじゅ」の責任者になった。この人たちからどのような反省の弁があるのか。検証作業こそが喫緊に必要なのであり、片側の人たちと組織だけで再び日本の原子力政策を決める愚を繰り返してはならない。それはフクシマの責任をとることに真っ向から反する。

 

地層処分事業はすすむか
原発の運転につきまとう放射性廃棄物の始末の方法が宙に浮いている。放射性廃棄物を地層処分するために、地震列島を色分けして科学的有望地をしめす計画が何年も審議されてきて、2016年12月までに公表されることになっていたが、先延ばしされた。
高レベル放射性廃棄物はガラス固化体としてすでに2万5千本分存在する、これは何とかしなければならない、それには地層処分しかない、それをおこなうのは現世代の責任である。これが国の言い分である。NUMOがその直接的な当時者になっている。
しかし、この言い分に倫理はあるか。原子力を進めてきた原子力政策の重い責任は原子力委員会とその長にある。ところが、前の原子力委員長がNUMOの理事長になって、今後も出し続ける廃棄物の後始末を呼びかけ、国民に協力を求める。
国とNUMOは基本がまちがっている。本気で処分方法を決めたいのであれば、まず、原発を止めて廃棄物をこれ以上増やさないことを決めるべきである。そのうえで、原発反対の人たちをふくめて、時間に制限をつけずに熟議を重ねなければなるまい。そういうことを国もNUMOも理解しない。今後は、小・中学校の理科と社会科の授業で、皆さんは電気を使うでしょう、そうすると「電気のごみ」が出ますね、その後始末が必要ですねと説いていこうという。

 

審議の仕組みと方法を変えよ
フクシマに対処するはずの多数の有識者委員会なるものが設置された。そのやり方がおかしい。有識者といわれるが、官僚の意向に沿った委員が大半を占めるように委員を選ぶ。事務局は官僚が取り仕切り、委員長は事務局が決める。一見、民主主義にのっとっているかのごとくだ。しかし、これでは初めから結論が判っているようなものだ。
福島第一原発の廃炉など事故処理費用が当初の算定額の2倍の21.5兆円に膨らむという計算が、12月9日に公表された。廃炉工程の全容がつかめないのだから、この額で済むはずはない。しかも、電力会社の積み立て不足による「過去分」の2.4兆円は、電気を使ってきた一般消費者にも負担させるという。
国会で強行採決が続き、政治の軋みを増大させている。官僚と政治家の思惑が民意と大きく離れている。委員会の在り方と審議の方法とを根本から考え直すときではないか。
2016年10月の新潟県知事選で、原発再稼働賛成は24.2%にすぎず、反対は60.4%だと共同通信の世論調査が伝えている。民意が支持する新人候補が大差をつけて当選した。台湾でドイツと同じように原発廃止が決まった。ベトナムは日本とロシアからの原発輸入の中止を決めた。フクシマの影響である。

山口幸夫(原子力資料情報室・共同代表)