原子力利用推進の「基本的考え方(案)」 は要らない
原子力利用推進の「基本的考え方(案)」は要らない
西尾漠(原子力資料情報室共同代表)
原子力委員会が4月26日、「原子力利用に関する基本的考え方」の案を決定した。27日から6月5日まで、パブリックコメントの募集が行なわれている。しかし、その中身をみると、とてもコメントしようという気になれない。何か言うとすれば、そもそも「原子力利用に関する基本的考え方」などというものをつくる必要はない、と一言で済む。
この案の作成に向けて、原子力委員会は何人もの「有識者」から意見聴取をした。2015年2月13日の臨時会合では、当室の伴英幸共同代表が意見を述べている。そこで伴は、13年12月10日にまとめられた「原子力委員会の在り方見直しのための有識者会議」の報告書が「新委員会は、原子力利用の推進ではなく、原子力に関する諸課題の管理、運営の視点から活動することになる」としている箇所を引用し、原子力委員会の位置づけが変わったことを強調した。「推進機関でないという基本的なスタンスのもとに、これから策定されようとしています『基本的考え方』を整理してほしいと願っているわけです」と述べたのだ。
それに対し、原子力委員会の岡芳明委員長は、こう答えている。「推進に見えるときもあれば、そうじゃなく見えるときもある。立ち位置については私どもも、まだ少し悩みながらなのですけれど、ここに書いてある諸課題の管理、運営の視点から活動するというのは、比較的、活動の方針としては分かりやすいかなと思っております。現時点ですけれど」。
「原子力利用に関する基本的考え方(案)」では、次のように記述された。「原子力委員会は、原子力利用を推進する、あるいは慎重に検討するといった立場にとらわれずに世の中に存在する技術である原子力を考え、検討を進めてきた」と。
しかし、「在り方見直しのための有識者会議」の報告書より、原子力委員会設置の根拠である原子力基本法のほうが強制力があるようだ。16年12月27日の原子力委員会定例会議で岡委員長いわく「原子力を利用するか利用しないかということは、原子力委員会は利用するという法律の下でありますので、それは必ずしもこちらの議論のマターではないのではないか」。
原子力基本法第一条には、「利用する」というより「推進する」ことが明記されている。本気で推進機関を脱しようとするなら、まず、原子力基本法を変えることを、原子力委員会が自ら提起するのがよい。
政府方針が前提でよいのか
仮に原子力基本法の下で利用なり推進なりは仕方がないとしても、その進め方については「企画し、審議し、決定する」(同法第五条)権限が原子力委員会にはある。ところが、たとえば原子力委員会が17年1月13日に決定した「高速炉開発について」の見解中には、「高速炉開発を含む核燃料サイクルを推進するとの方針を前提として」といった表現がある。原子力基本法に書かれているわけでもない政府の方針が前提とされているのだ。
「原子力利用に関する基本的考え方(案)」が、「『エネルギー基本計画』、『科学技術基本計画』、『地球温暖化対策計画』等を踏まえ」と言うのも、まさにそれらを前提とするということである。「G7伊勢志摩サミットの首脳宣言」や「長期エネルギー需給見通し」も前提とされている。「原子力利用に関する基本的考え方(案)」は、政府の方針を前提としてまとめられたものと言えよう。
しかし、それで「新たな原子力委員会では、原子力行政の民主的な運営を図るとの原点に立ち戻って、その運営を行ってきた」と言えるのだろうか。確かに、現行の原子力委員会設置法では、旧法にあった内閣総理大臣が委員会決定を「十分に尊重しなければならない」との条文が姿を消した。とはいえ、「内閣総理大臣を通じて関係行政機関の長に勧告することができる」とする条文は変わっていない。
閣議決定された計画であっても、随時見直されるのだから、前提にする必要はない。見直しに向けた勧告があってもよいはずだ。そうしたことがあってこその「民主的な運営」だろう。政府方針をなぞって「国民からの信頼回復」をうたうだけの「原子力利用に関する基本的考え方」なら要らないと考えるゆえんである。
中身にも異論あり
中身にコメントする気になれないとしたものの、二、三、見逃せない点もある。「無理な避難により災害関連死等の被害が生じた」といった責任逃れ然り、「規制基準を満たすことのみを重視した『取締まり型』から、さまざまな事象を想定し未然に防ぐことを重視した『予防型』の安全確保への移行」といった我田引水然り(岡委員長は17年3月27日の日本原子力学会年会で「東電福島原発事故は『取締まり型』から『予防型』の安全確保への移行が遅れたために生じたと考えることもできる」と講演していた)。
それこそ我田引水に過ぎると思ったのは、「ゼロリスクはない」という言葉の使い方である。「『事故は必ず起こりうる』との認識の下、『残余のリスク』をいかにして小さく抑え、顕在化させないか」が大切だと、もっともらしい物言いは、「ゼロリスクを求めるのは誤り」という主張につながる。だが、本当に誤りなのか。
前出の原子力委員会臨時会合で、伴共同代表は、こう指摘した。「1月28日に畑村洋太郎先生が、事故は必ず起きるというふうにおっしゃいましたけれども、実際の新規制基準適合性審査等々を考えていると、私はリアリティーを持って、再び起こるのではないかという懸念が強い。そういうことから、個人的にも原発から撤退すべきという基本的スタンスを持っております」。
原発から撤退するというゼロリスクの道がある時に、ゼロリスクを求めるのは誤りでなく、正しいことだ。もちろん、撤退後も残るリスクを「小さく抑え、顕在化させない」必要はあるが。
もう一点、強い違和感を覚えたのは、「国民生活・経済への影響」を原子力推進の理由づけにしていることだ。「原子力発電を代替する従来の火力発電の焚き増しに伴う化石燃料の輸入増加により、多額の国富が海外に流出するとともに、再生可能エネルギー固定価格買取制度の導入等も相まって電気料金の上昇を招いている。電気料金の上昇は、すべての要因ではないにしても、産業の国際競争力の低下や雇用機会の喪失等、国民生活及び経済活動に多大な影響を及ぼしていると考えられる」と、「原子力利用に関する基本的考え方(案)」は言う。そこで「低炭素かつ運転コストが低廉なベースロード電源」=原子力を推進しよう、と。
反論はほかのところでしているので(反原発運動全国連絡会パンフレット『残された選択肢は廃炉しかない!!』)控えるが、生活との関わりを検討することはよい。というか、原子力の問題は危険性のみでなく、核拡散や合理性、民主性、倫理性など、さまざまある。そうした問題をきちんと検証するなら、原子力委員会の存在意義があるのだが、上述のように一方的な情報をつまみ食いしただけで原子力推進論に結び付けるのでは、何にもならない。
軍事転用の防止は、本来、原子力委員会の任務である。ところが、これは旧原子力委員会も同じことだったが、「余剰プルトニウムを持たないとの原則を堅持する」ことに終始していて、しかもその原則は実体を伴っていない。
新原子力委員会は、「原子力利用に関する基本的考え方」の作文より前に、しっかり考えるべきことが多々ある。それができないなら、委員会自体が廃止されて然るべきだろう。